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カテゴリ:雑記( 93 )

【雑記】邪神の描き方

GW中に久しぶりにスカイリムを遊んでいて改めて思ったのだが、スカイリムは神(邪神も含み)の描写のバランスが良い。

神の描き方

神は実体を持ったクリーチャーではなく、現実世界に生きる人(亜人も含む)を導くパワフルな存在であるというバランス。主人公も含めて神の啓示を受けて導かれたり、特定の信仰の為の活動をする人間たちはいても、神自体は地上で活動していないという感じだ。

こういう手法はリアリティを重視するホラーなんかだとそんなに珍しく無いが、スカイリムは魔法やドラゴンが跋扈するファンタジーである。別にスーパー魔法生命体みたいな感じで神を顕現させても良い気はするのに、敢えてしていないのが面白い。

スカイリムにおけるリアリティとファンタジーのバランスが面白い例としては、幼女殺人犯として流れ者の労働者が逮捕されるイベントがある。町の人は殺人の動機が不可解で困惑し、主人公が動機を調べるんだけど、実は犯人はワーウルフだった事が分かる。でも、その男はそもそもロリコンの殺人鬼で、可愛い幼女を見ると衝動が抑えられなくなって、ワーウルフに変身して殺人を行っていた事が分かる。文字通りの狼男であると同時に、メタファーとしても狼男である訳だ。

RPGと神表現

スカイリムがこうした表現を取り入れている理由は、恐らくドラマの焦点を人間に当てて置く為では無いかと思う。

主人公が世界や神や荒唐無稽な超自然性と向き合う構造になってしまうと、世界に大量に配置されたNPCの意味が薄れるというか、物語を形成するリソースとしての価値が低下する弊害はある気はする。主人公が対峙するのは、あくまで神に誘導された人間という構造なら、NPCときちんと向き合う意味が維持される。これは物語に重点を置いたRPGにおいては、特に意味のある構造だろう。

神を殺す

こうした表現を踏まえると、ファンタジーにありがちな神と戦ったり殺すという行為はかなり興味深いものになる。神の活動は、信者の活動として顕現するので、取りあえずは、神を信奉する人間を全滅させる必要があるだろう。そして、新たな信者を発生させない為に、焚書坑儒的な行為も必要になる。

これだけでもかなりの労力だが、それを達成してもなお、自然発生的に神を崇拝する人間だとか思想が新たに出現する可能性は残る。

神を人間が直接戦える存在にしなければ、RPGの場合は無限に神と戦うキャンペーンを続けていく事が出来るのである。

ちなみに、これと似た構造を真逆のベクトルでやっているのが『残穢』という作品だ。『残穢』の場合は無限に怪異の原因を遡れるという構造になっている。これは原因としての邪神を探す話であり、先に述べた様な特定の神が事件を発生させ続ける構造を、逆転した形になっている。

ブラックボックスとしての動機

人が異常(に思える)行動をとる際は、その動機は他人にとっては常にブラックボックスである。こうしたブラックボックスにこそ、神の居場所はある。

スカイリムには、邪神に操られた(直接的にも間接的にも)ヤバい奴だとか、危険な集団が出て来るが、同時に主人公もちょいちょい神と遭遇して指令を受ける。神の声やヴィジョンが純粋に主観的なものだとすると、主人公もまた神の命令で人を殺したりしているヤベー奴なのである。

人間の行動の動機は常にシンプルとは言い難い。また、物事は常に複雑に絡み合っているので、原因はシンプルとは言い難い。こうした複雑系は、結局の所は人間にとって永遠にクリアにならないモノなのかもしれない。故に、そこに神が宿る。

ホーリムズと神

こうした発想について、アリストテレスは「全体とは部分の総和以上のなにかである。」という言葉を遺しているらしい。システム全体は、単純な部分の集合には還元できないという思想自体はホーリズムと呼ばれるようだ。

この全体は正確に理解できないというブラックボックス性は、ホラーにおいては神の居場所として最適である様にも思える。神は全体に宿るのだ。つまり複雑系領域であれば、神は実在しても問題無いのである。

例えば地震の発生なんかは複雑系領域だと思うが、地震発生のタイミングは完璧に予測出来たりしないので、そこに神の存在が絡んでいても物語的には別に問題ないと言える。フィクショナルな因果関係に説得力を持たせる事が出来さえすれば良いのだ。ちなみに『帝都物語』においては、日本を襲った過去の超巨大地震の背後には魔人加藤による日本壊滅の陰謀があった事になっている。

神の在り方

個人的にホラーにおける神(超自然的存在)は、複雑系というブラックボックス領域に潜む存在であって欲しいと考えている。そこに潜む限りは、物理的な法則とバッティングしないで済むので、超自然的な存在は、超自然的なままでいられるのだ。そして、神は気まぐれに主人公達が共有する主観的な世界に侵入し、マジックリアリズム的に出現するのである。

ここで、主人公たちが神を倒せるか倒せないかは、作者のセンスが問われる所だろう。個人的には、先にも述べた様な理屈で神に操られた人間は撃退できても、神自体は撃退できない方が好みだ。『IT』におけるペニーワイズは、腐りきって荒んだ町が抱える複雑系に潜む邪神であると同時に、撃退されちゃうタイプだったけれども(ダークファンタジーなので)。

みたいな神にまつわる四方山話。特にオチは無い。


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by cemeteryprime | 2018-05-09 14:06 | 雑記 | Comments(0)

【雑記】創造に関する弱者性

若干露悪的なイメージになってしまうが、創作のイメージは極端に言えば、以下の2種類に分かれる。(一応言っておくが、勿論ありとあらゆる創作は模倣の上に、過去の作品の上に成立しているという前提の上での話である。)

パターン1:

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パターン1は、作品全体として元ネタの存在感が薄いというか、元ネタより作者の個性(アレンジ力や表現力を含む)や世界観が前面に出ているパターンである。イメージ的に元ネタはあくまで作者の世界観を構築するパーツだったり、栄養分として機能している。

パターン2:

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パターン2は、全体として作者の個性より元ネタの存在感の方が大きく、どこが改変されているかという形でしか、作者の世界観を認識し難いパターンである。イメージ的には、改造に近い。二次創作なんかはこうした創作パターンの最たる例だろう。

創作パターンの違いと、能力

どちらも自己表現であり、創作には違いないのだが、この違いはどこから来るのだろうか。大雑把に原因を挙げるとするなら、作者のスキルの違いだろう。

世界観のデザインだったり、どういうメディアを使うかだったり、創作に必要なスキルというものは、実は多岐に渡っている。キャラクターは上手くデザインできるが、社会のデザインは上手く出来ない人もいるだろうし、絵が下手とか、文章が下手とか、様々な作者の得意不得意の影響を受ける事になる。

能力が足りない人ほど、借り物要素が多くなる訳だ。勿論、意図的にパロディや記号として元ネタを使うという表現もあるのだが。それ故に、プロの世界より、アマチュアの世界の方が、二次創作性を隠さないコンテンツが多い。しかしながら、そうしたパターン2の創作手法に頼っていた人も、スキルが磨かれて来るにつれて、借り物要素が不要になりというか、少なくなりパターン1へと移行するという現象が観測できる。

パクリと弱点

なのでパクリの指摘は、弱点の指摘でもある。しかしながら、弱点の存在を許さない空間というものは、窮屈な世界であり、新しいものの誕生や変化を許さない世界でもある。

弱者だからこそ、既存のモノの力を借りて世に出て来ざるを得ないという要素は大きい。ここでの弱者性とは、創作能力という意味での弱者性だけではなく、マイノリティ性も含まれる。目新しいモノほど、世の中には理解されないので、既存のモノの力を借りる必要性があるという話だ。

能力的な弱者や、マイノリティ性を守るには、既存のモノの力を自由に使える環境というものは、ある程度は必要なのである。

どうでもいい時事ネタではあるが、最近ニコニコ動画の社長か会長をやっていた川上量生という人が、国の情報公開を巡る是非に絡んだ炎上についての発言の中で、ネットは弱者の逃げ場であるべきで、過度に現実社会と一体化させるべきではないという、思想が表明されているのを見た。ニコニコ動画は、二次創作やら三次創作やらの、悪い言い方をするならパクり合いが過度に横行している環境だった訳だが、ああいうものが割と許されていたというか、保護されていたのはそうした、弱者による表現の在り方を守るという思想が絡んでいたのかもなと、改めて考えさせられたリもした。

産婆術

そういう構造を踏まえた上で、個人的に今必要とされているのは、ユニバーサルな元ネタ、もしくは作品生成をサポートするシステムなのでは無いかと思っている。上手く作者の世界観やリアリティを抽出し、作品としての形を与えてやるシステムである。

作者から作品を引きずりだす存在を、ミューズ(芸術の女神)と呼ぶが、正しく機械仕掛けのミューズの様なモノが必要なのだろう。俺の場合は基本的にホラー脳なので、そこに作品の誕生を誘発するミューズの姿ではなく、作者から邪悪な因子を汲み取って沢山の作品をボコボコ生むシュブ=ニグラスの様な姿を見てしまうのだが、まぁ同じ話ではある。

最近、生きた人間をミューズとして酷使していたせいで、写真家のアラーキーという人がある種の炎上をしていた訳だが、機械のミューズを造ればそうした問題ともおさらばできるんじゃないのかなと。とまぁ、そういう事を考えているというか、以前からやっていた創作システムのデザインなんかはそういう事なんだろうなという話。


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by cemeteryprime | 2018-04-11 11:30 | 雑記 | Comments(0)

【雑記】孫悟空とスーパーマン

ちょっと前に「ドラゴンボールはスーパーマンのパクリなのか?」みたいなまとめスレの記事があった。まぁ孫悟空がスーパーマンを元ネタにしているのは間違いないのだが、真に注目すべきは類似している所よりも違っている所なのだ…という話をしてみたい。

共通点

まず共通点としては、実はエイリアンで母星が消滅して赤ちゃんの頃に地球に脱出ポッドで飛来したという点や、見た目は地球人だが地球人より頑丈でパワーも強い点、地球人に拾われて田舎で育てられた点、地球人風の名前とは別にエイリアンとしての本名がる点など色々である。

相違点

そして相違点としてまず気になるのが、誰に拾われたかという部分だ。スーパーマン(クラーク・ケント)を拾ったのは田舎で農民をやっていた夫妻だ。一方、悟空を拾ったのは田舎で隠居生活をしていた武術家の老人孫悟飯である。もう1つは、スーパーマンは基本的に常時超人であるのに対して、悟空は大猿やスーパーサイヤ人に変身することでスーパーパワーを発揮すると狼男的な属性を持っている点である(まぁ平常時でも強いが)。

こうした共通点や相違点はどこから来るのか。相違点が無かったら、完全なるパクリでやばいからみたいな話は置いといて、表現の形には理由があるものなのである。

スーパーマンの背景にあるもの

アメコミファンには凄い今更なカビの生えた話なのだが、スーパーマンの作者はユダヤ系であり、そうした背景はスーパーマンの設定にも色濃く反映されている。

スーパーマンも作者も故郷を失った民族であり、アメリカにやって来た移民(エイリアン)であり、しかしアメリカで育ったのでアメリカ文化しか知らず、アメリカ風の名前を名乗って生活しているのである。

スーパーマンは、田舎で農民をやっていたケント夫妻に拾われて育てられる。本当の両親はクリプトン星人なのだが、育ての親はアメリカ人、それも古き良きスピリットを持った田舎の農民なのである。それ故に、スーパーパワーを持ったエイリアンだが、古き良きアメリカ人的な良心を備えているキャラクターなのである。

悟空の背景にあるもの

それでは悟空の場合はどうか。悟空の場合、作者は別にユダヤ系移民では無い。しかし、故郷のロストが描かれている。悟空の背景にあるものを理解するには、誰に拾われたかという部分が重要になる。

地球に来た悟空は両親にあたる存在を獲得しなかった。育てたのはお爺ちゃんである。これは、悟空が古き良きモラルの在り方や、大人としての在り方を学ばなかった事を意味している。実際、悟空は後に成長して大人になり子供さら持つが、心は少年のままだったし、スーパーマンの様な社会的な正義に目覚めたりもしていない。悪役と戦ってはいたが、単に強いやつと戦いたいという理由だった。

この両親の不在性と大人になれない人物像が、日本の文脈において意味するのは、明らかに第二次大戦の敗戦によって過去が黒歴史化した記憶だろう。モラルの手本にすべき先の世代の価値観や権威が全否定されてしまったのだ。こうした要素が、意識的にやっているのかどうかは知らないが、悟空の両親が不在であるという表現に結び付くのだ。

鳥山明は、世代論的にはしらけ世代とか言われている世代で、特徴として政治的な関心が極めて薄いという点が挙げられている。政治的な関心が薄いという特徴は、正義の在り方だとか正しさについての関心も薄いという事を意味している。政治性の強いスーパーマンとは真逆の在り方である。

それを踏まえると、スーパーマンの消滅した故郷であるクリプトン星がの正体が遥か古代に消滅したイスラエル王国であったのに対して、悟空の消滅した故郷である惑星ベジータの正体は、アメリカに滅ぼされた大日本帝国だったという事が分かる。この違いは、故郷の星に関するイメージの違いや、スーパーパワーの在り方の違いにも出ている。

クリプトン星は、地球以上の高度な文明を持ちどこかユートピア的な印象が強い。ちなみに映画『ブラックパンサー』における架空の王国ワカンダの描き方も似たようなイメージだったが、アメリカの黒人たちも望まぬ形で故郷を失った人々である事を踏まえると、失った故郷の描き方がユートピア的になるとい点は理解しやすいだろう。そしてスーパーマンの本当の父親は科学者として描かれる。

一方、惑星ベジータというかサイヤ人の描かれ方は、野蛮で侵略者的な戦闘民族なのである。そして悟空の本当の父親は下級兵士として描かれる。軍事国家における市民のイメージだ。更に付け加えると、スーパーマンのエイリアン性は、ある種の神の如き能力として描かれるのに対して、悟空のエイリアン性は、狂暴な大猿への変身という形で描かれる。

悟空のエイリアン性に対するネガティブなイメージは、孫と祖父という関係性だが一応は育ての親であった悟飯を、知らない間に大猿に変身して踏み殺してしまったというエピソードからも拾える。このように、悟空の故郷や血筋の描かれ方には、日本の黒歴史と化した軍事国家としての大日本帝国の在り方が色濃く反映されているのである。

狼男というモチーフ

もう1つ掘り下げてみたいのが、狼男というモチーフである。悟空の場合は、狼男というより大猿男という感じだが、満月を見て変身するという点で共通している。

スーパーマン(クラーク・ケント)の場合、全身タイツにマントという変装をしてスーパーマンを名乗っている時も、クラーク・ケントとして普通のアメリカ市民を演じている時も、基本的に能力は同じである。

一方で、悟空の超人性は通常時は呪われた本性として封印されているのである。こうした本性としての異形性や暴力性(スーパーパワー)が普段は隠されていて、変身することでそうしたパワーを解放できるのだが、時に暴走してしまい破壊をもたらすというイメージは、かつての戦争という黒歴史を踏まえて過度に抑圧される事になった日本の二面性とリンクしている。ちなみに、悟空だけでなく仮面ライダーを始めとして日本には変身キャラが多い。アメリカの場合、ヒーローは変装をするだけで、変身するタイプはあまり多くない。ハルクなんかはまぎれもなく狼男的だが。

スーパーサイヤ人の在り方

そして、それを踏まえると、後に悟空が大人になり、大猿ではなくスーパーサイヤ人という白人めいた姿に変身する様になるのもかなり意味深で面白い。

単に白人へのコンプレックスの現れとして片付けられる事も多いが、前後の変化を踏まえれば、大日本帝国的な呪われた戦闘民族としての本性を抑圧する日本から、アメリカをお手本に資本主義的な戦闘民族として本性を解放する様になった日本へという、自己イメージの変化が読み取れるのである。

差異を比較すること

ドラゴンボールという作品は、かなり長期間、日本の漫画やアニメの代表的な存在でありながら、サブカル評論系の本でもいまいち掘り下げられていないイメージがある。あまりにメジャーでサブカル感が薄いのでオタク受けしないという要素もあるのかもだが、メジャー過ぎるという事は自分たちとの距離が近すぎるという事でもあるので、逆に特徴を汲み取り難いという話なのかもしれない。

ネットでは似たような作品を並べて、パクリかどうかをやたら検証する文化があるが、差異について掘り下げる事の方が面白いし、今まで見えていなかった共通点を発見できたりもする。

かつては作品の評価をする際に世代論的な比較が行われる事が多かった。しかし、最近はグローバル化とIT化の発達で、市場には作品が国籍や年代に関係無くフラットに並べられる時代である。

同じ日本の文化に属する作品を比較しても、日本的な部分や特徴というものは当たり前の様に共通するので、案外汲み取り難い。しかし、外国の作品と比較すると、その辺りが露骨に浮き彫りになる。日本人は宗教意識が低いと言われて来たが、それは外国人と自分たちを比較する機会が少なかったからだろう。IT化で身近な他人の異質さを発見しやすくなったことは、確かに社会の分裂や衝突にも繋がっていてネガティブな部分が目立つのだが、グローバル化で真の意味で自分たちの異質さや独自性にも気付けるようになったことは、それなりに良い事じゃなかろうか。


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by cemeteryprime | 2018-04-05 12:36 | 雑記 | Comments(0)

【雑記】物神崇拝と日本の国民性

映画『シェイプ・オブ・ウォーター』を観て改めて考えさせられたのは、日本文化や気質の大きな特徴として、フェティシズム傾向の強さがあるのではないかという点である。これはオタク性と言い換える事も出来る。

フェティシズム(物神崇拝)

フェティシズムとは、文化人類学的にはパワーが宿った偶像や護符といったアイテムを崇拝する文化である。心理学的にはアイテムや動物や人の特定部位のみ、といった人間以外のモノを強い愛情や性欲の対象にする傾向をこう呼ぶ。

こうした態度をフェティシズムと呼び、ある種の倒錯と捉えるのは、人として…というか生き物として本来あるべき姿は、まずは自分を。次に家族や恋人を。更には隣人、延いては同じ人間として全ての他人を…愛するべきだろうという思想が前提としてあるからだろう。なので、そうしたものを蔑ろにして物(や概念)に優先的に愛情を注ぐ姿勢は倒錯的であるという訳である。

知性とフェティシズム

しかしながら、恐らくフェティシズムは人間の本質的な属性でもある。思うに動物は知性が向上し、思考回路が複雑になると、好きと嫌いを同居させる様になり、複雑な葛藤を抱える様になる。

先に述べた人が生き物として本来備えるべき愛情とは真逆の自己嫌悪、同族嫌悪というモノが芽生えはじめると、自分や他人から目を逸らしたい、別のモノに愛情を注ぎたいという欲求が芽生える。

こうした思考回路の複雑に伴ってフェティシズム傾向が生まれ、モノに執着し、モノで遊び、モノを作る様になり、やがては文化を発達させる様になった。…という文脈を勝手に想定しているのだが、そこまで的外れでは無いだろう。

フェティシズムは、人以外を愛するという行為でもある為、度が過ぎると退廃的であり反社会的であると非難を受ける。他人に対して心を閉ざし、物に強く執着する姿勢はオタク的と呼べるが、相対的にフェティシズム傾向が過ぎているという話でもある。

フェティシズムの悪い部分

映画『シェイプ・オブ・ウォーター』の悪役、ストリックランドにはそうしたフェティシズム傾向(オタク性)の負の部分が集約されていた。権力への執着、物への強い執着、大人しい都合の良い女への偏愛という気質である。これらは全てディスコミュニケーションへの欲望として説明することも出来る。

権力を求める姿勢は、オタク性とは真逆に思えるが、権力はコミュニケーションの面倒臭い部分を省略する為のシステムでもある。デカい事をするには、人手がいるが、人が増えるとコミュニケーションのコストも増える。しかし権力があれば命令権によって、ある意味で他人を道具として扱えるのでコミュニケーションのコストは下がる。技術系のオタクは権力ではなく、機械的なシステムでコミュニケーションの面倒臭さを改善しようとするが、方向性は同じである。

日本の独自性

フェティシズム傾向は人の本質であるとも言えるし、シェイプ・オブ・ウォーターが警鐘を鳴らしている様に、世界的にもそうした要素は強くなる一方なのだが、それを踏まえてもなお、日本は特にこの傾向が国民性として強いと思われる。日本のオタク文化が世界を席巻みたいな話は、自国万歳イズムも多少は入っているだろうが、ある程度は真実で、ただしオタク性にはネガティブな要素もある以上、もうちょっと深刻に考えた方が良いのも事実だろう。

日本において、こうした特性が特に強まったのは、目を逸らす能力の高さが原因では無かろうかと思える。フェティシズムの発達は、目を逸らす能力の高さと密接に関係している。目の前のモノを視ない能力は、存在しないモノを視る能力(=想像力)に繋がる。想像力は、モノを作ったり、愛でたりする上て不可欠な能力である。

日本において、なぜこうした目を逸らす能力が発達したのかと言えば、それは地震大国であることが影響しているのではないかと考えられる。地震の脅威は、基本的には人間にはどうしようもないし、日本中どこに行っても地震からは逃れられない。確実にあるけど避けられない脅威と付き合うには、目を逸らすしかないという理屈である。

更に付け加えるなら、異民族や他文明との衝突という脅威に日常的に晒されていなかったという事情も関係していると思われる。異民族という脅威は、人が何とか出来るタイプの脅威なので、目を逸らしている場合ではない切羽詰まった事情になる。加えて異民族という敵を知る事も、立ち向かう為に団結することも、人から目を逸らさないという文化に繋がる。

日本の場合は島国で比較的そうした脅威が薄く、その結果、民族大移動的なイベントとも縁が無かったので、比重として目を逸らす文化の方が強くなり、フェティシズムが高度に発達する土壌が出来たのでは無かろうか。単なる推測だけども。

日本文化の本質的な矛盾

その文化の本質を知る為には、その文化が抱える矛盾を知るのが手っ取り早いという言葉がある。誰の言葉だったか忘れたが。

先に述べたフェティシズム強めの文化があるとい前提で、日本の大衆文化の在り方を理解する為の矛盾は以下の2つの傾向だと考える。

A:気に入ったモノがあると、脱構築とN次創作とキャラ萌えとフェティシズムで徹底的に奇形化させて、消費する傾向。

B:血筋の純粋さや、伝統的な正当性、天然性、純粋無垢性、シンプルさを求める傾向。

この2つの相反する対極的な嗜好は、特に大衆的な文化に明確に出ている。

Aは言ってみればフェティシズムの極北といった性質である。モノには形やルールが必要になり、モノを愛するという事はそうした形やルールを愛する事にも繋がるが、日本人の場合はそれを徹底的に破壊し変形させる事を好むのである。

日本の神様や歴史上の偉人を単なるキャラクターとして魔改造しまくる傾向なんかは、分かりやすいAの事例だろう。これは外国から抗議を受けてニュースになる事も多い。別にそういう魔改造をするのは日本だけでは無いだろうが、特に敵意がある訳でもなく、ここまでカジュアルかつ極端にそういうことをやるのはやっぱり日本くらいでは無かろうか。

この傾向は最終的にはオリジナリティの否定や物の価値の否定にも繋がる。日本には昔から芸術作品が安価で大衆に消費されてきた文化があり、また創作において二次創作どころか三次、四次といったN次創作を加速させる文化も存在している。映画『リメンバーミー』において、モノの価値はそれが生まれるまでに尽力してきた人々へのリスペクトで担保されているというメッセージがあったが、フェティシズムの極北であるということは、そうしたリスペクトの激しい欠落も意味している。

BAに対する反動的な傾向だと解釈できる。日本の場合は、Aが極端に強いので、反動としてのBも極端に強い。大雑把に言えば、保守的な傾向と一括りに出来るかもしれないが、世界の一般的な保守的な傾向というものは、フェティシズム以上に、自己愛や家族愛や人類愛を強調する要素がある。しかし、日本の場合はそういったものも薄い。

ピュア崇拝の顕著な例は、何といっても生食文化だろう。生で食べるのが一番だと言わんばかりに、卵だったり魚だったり肉までも生で食おうとするし、野菜なんかも畑で取れたてを生で齧るのがベストだみたいな描写がテレビではお馴染みである。何でも食べる中国人ですら、最近まで生食はゲテモノ扱いだったことを考えると、生で食べたる思想自体が特殊であると言わざるを得ない。

まとめ

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人が動物と差別化出来た理由は、フェティシズムに目覚めたからである。フェティシズムに目覚めた事で、人はホモ・ファーベルでありホモ・ルーデンスでもある存在と化した。

フェティシズムと対を成すのは、ヒューマニズムである。ヒューマニズムは自分や同類への愛である。この葛藤は、人がモノを視る時、人は視ていないというシンプルな構図で表現できる。

日本は世界と比較して、フェティシズムの比重が高い。キリスト教やイスラム教などの世界宗教にはヒューマニズムが強く盛り込まれている。日本人は無宗教だと自認している人が多いが、実態としてはフェティシズムが強く、ヒューマニズム意識が低いので、ヒューマニズム=宗教性だとするなら、確かに無宗教に近い。フェティシズムが強いので、外国の文化や宗教も、目新しいモノとして積極的に形だけ取り込む傾向がある。

そして、フェティシズムが強い日本文化の特徴は、極端な脱構築イズムと極端なピュア崇拝という、相反する性質の同居である。基本的にクールジャパンとして日本が世界に発信しているものは、このどちらかの強い影響下になる。

脱構築イズムの例としては、行き過ぎたキャラ文化や、N次創作文化、そしてその極北としてのモノのオリジナリティや価値の軽視が挙げられる。日本の漫画と漫画村はどちらもこうした脱構築イズムの文脈に存在しているのがある意味で面白い。またキャラクターだったら何しても良いだろという日本的な思想は、神様や歴史上の偉人を魔改造したり、二次元女性を滅茶苦茶に凌辱したりで、色んな方面から非難を受けている。

ピュア崇拝の具体例は、シンプルを求める禅だったり、生食文化だったりがそうである。また日本の政治家は圧倒的に世襲が多いのも、こうした血統主義で理解できる。漫画の主人公も、結局は血統かよという展開が多いが、日本人は割と血統が好きなのである。天皇制なんかは血統主義の最たる例だろう。アイドル文化も、生身の人間をキャラクターの様に扱うフェティシズムに、恋愛禁止なんかのピュア崇拝が絡む文化だ。

こうしてフェティシズムに着目する形で、改めて日本文化の在り方を俯瞰してみたのだが、割といい線いっているのではなかろうか。クールジャパンという形で肯定的な部分だけ強調されているが、負の部分も多いよなと改めて思う。


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by cemeteryprime | 2018-04-03 18:58 | 雑記 | Comments(0)

【創作】ベドラム

フランケンシュタイン・クロニクルを観ていて、フランケンシュタインの怪物として蘇生された男がベスレム精神病院に収監されている描写があり、その昔描こうとして面倒臭くなってやめた作品の存在を思い出した。

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タイトルはBEDLAM(ベドラム)。ビクトリア朝イギリスが舞台の19世紀アベンジャーズ系である。とある貴族の食客として飼われている奇人変人で構成された異能者チームが、ロンドンで発生する怪事件のトラブルシューターとして駆り出されるみたいな感じ。アラン・ムーアのリーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメンの影響を受けたというか、パクリ系である。表紙っぽいモノが残っていたので、発掘してきた。

主要メンバーは以下の様な感じ。折角なのでここで披露して供養しておこう。

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ナサニエル・ストランド

奇人変人を食客として抱える貴族。モチーフは孟嘗君。

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サイレント・アダム

死体から作られた人造人間で、サイコキネシスとテレパシーを使う。怪力系ではなく、超能力が暴走するタイプ。モチーフはフランケンシュタインの怪物。

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ロジャー・マンドレイク

植民地探検家。ヒマラヤの古代遺跡で悪魔に憑依され地獄先生ぬ~べ~状態になり、霊視能力を得ている。

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ピーター・ヤン

見習い道士。カンフー要員。

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“スパイダー”バーソロミュー

元盗賊団の首領で私立探偵。モチーフはヴィドックとアルセーヌ・ルパンとシャーロック・ホームズ。袂を別った盗賊団メンバーと敵対している。

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ファウスト

心霊医術と精神医学に詳しい医師で、悪魔召喚師。自身の研究を持ち逃げした悪魔召喚士の弟子を追いかけて、ロンドンにやってきた。

クトゥルフ・バイ・ガスライト

結局、このベドラムという作品のアイデアは面倒臭くなって漫画にはなってなかったんだけど、探してみたらシナリオは幾つか残っていて、ヴィランとかの設定もいろいろ残っていた。

よくよく考えたら、ベドラムの設定はクトゥルフ・バイ・ガスライト用のシナリオに大した調整とかする必要もなく、そのまま転用できることに気付いた。エネミーデザインが細かく出来てたら、後は微調整みたいなもんだし。

19世紀ヴィクトリア朝ものに限らないけど、異なる時代が舞台のシナリオでいちばん難しいというか、やり難い部分って、エネミーデザインの部分だと思うのよね。その時代っぽい脅威とか問題意識を拾う際にいまいちイメージを掴みにくいという。

その点、リーグ・オブ・エクストラ~のノリで、割り切ってサクッと敵キャラを作ると、後が楽というか、謎の気軽さが出て良いはする。難しく考え過ぎずに、現代シナリオでも通用するキャラを、レトロな記号で置き換えるみたいな手法。

とりあえず、過去の遺物もたまには掘り返してみるもんだわという学びを得た。

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ついでに久しぶりに落書き。ビクトリア朝っぽさもフランケンシュタイン要素もないキャラデザだな。


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by cemeteryprime | 2018-03-27 10:32 | 雑記 | Comments(0)

【雑記】ジュンク堂大阪本店

ジュンク堂大阪本店の改装がいつの間にか終わっていたらしい。いつの間にかというのは、2フロア制になっているのは改装に伴う一時的なものだと思っていたからで、3月辺りだとは知っていたけども、いつ新装オープンするのか改めて聞いてみたら、もう新装オープンしてますよとの回答。これはショックだった。

というのも、売り場面積が単純に3フロアから2フロアに縮小してしまった上に、以前は1~3階のフロア間の移動が自由だったのに、分断されてしまったからだ。売り場面積が広く、色んな特集コーナーがあるのが大阪本店の特徴というか強みだったのに…。検索性が高い間取りというか、巡回しやすい棚の並びという強みも、売り場の縮小で消えてしまっている…。

個人的なジュンク堂大阪本店の楽しみ方というと大袈裟だけど、エンタメ要素があって、それは1万円以上買うことだったのよね。というのも、買い物額が1万円を超えると3階の書店内喫茶スペースでコーヒーか紅茶が1杯無料になるチケットが貰えるシステムがあったからだ。

ジャンプ漫画の新刊を1~2冊くらいしか買う予定が無くても、折角だし何かいい本は無いかなと1万円を超えるくらいを基準に2時間くらい書店内を1階から3階までぐるぐる巡回して、疲れ果てながらも特に買う予定も無かった面白そうな本に出会えたという満足感と共に、カフェスペースでミルクティーとかを飲んでちょっと休憩して帰るという、一連の流れが大きな本屋を満喫するエンタメだったのだ。

一応、今でも1万円以上買い物するとチケットは貰えるのだが(というか今日貰えたけども)、店内喫茶スペースは消滅してしまい、離れた場所にある店外カフェでしか使えないという。書店内のフロア移動も出来なくなった上に、巡回する上で面白みが無くなってしまったので、この文化はもう復活することは無いだろう。

こうなると梅田の大型書店は丸善ジュンク堂一択になってしまう訳なんだよな。先に説明した様な楽しみ方があったので、今までは常に大阪本店に寄ってから、買えない本とかがあったら丸善ジュンク堂にも寄るくらいの感じだったのだが…。

ジュンク堂に関しては梅田の丸善ジュンク堂以外にも、天王寺というかハルカス内のジュンク堂にも寄るのだが、正直言ってあまりレイアウトが好きじゃない。変な話かもしれないが、どの本をどの棚にどう置くかみたいな、書店リテラシーみたいなものは存在するのだ。こういうのは、小さめの書店の方が却って面白かったりするんだけども。ちょっと前に笑ったのは、登山ガイドとかハイキング本のコーナーに山の怪談系の本が一緒にならべてあった本屋だ。その点、以前の大阪本店は面白い企画コーナー用のスペースがいっぱいあったりして(謎の古武術グッズとか。買わんけど)、そういう遊びもあったのが良かったんだけどな…。消えたもんは仕方が無いが。


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by cemeteryprime | 2018-03-13 20:15 | 雑記 | Comments(0)

【雑記】映画とカイヨワ

映画の面白さは人それぞれである。…と言ってしまえばそれまでな気はするが、面白さには種類があることも事実である。何か良く分からないけど取りあえず面白いからOKという状態も悪くは無いが、自分は一体どういう要素を面白がっているのかを理解すると、他の要素についての見識も深まり、より楽しめる様になるのもまた事実なのだ。

遊び(面白さ)の定義

面白さの種類に関する定義で個人的に気に入っているのは、ロジェ・カイヨワによる4区分だ。ちなみに厳密に言うとこれは、人類の本質は遊ぶ能力にあるというホモ・ルーデンスという説を発展させた文脈で登場した、遊びについての分類である。遊びの種類とはすなわち、何を楽しむかという話でもあるので、面白さの定義として解釈することもできる(はずだ)。

アゴン…競争、対決

アレア…確率、乱数、偶然

ミミクリ…模倣、シミュレーション

イリンクス…非日常感、目眩

以上が遊び(面白さ)についての4区分で、これに更に人の本質として、以下の2つの傾向を挙げている。

ルドゥス…ルールを作る、ルールに従う

パイディア…ルールを破る、解放

映画とアゴン

映画におけるアゴン要素とは、例えば主人公とライバルの対決であり、主人公が何かしらの障害を乗り越える過程であったり、内面的な葛藤についての描写もまたこれに含まれる。

その国の本質を理解するのは、その国が抱えている矛盾を見るのが一番の近道であるという言葉もあるが、衝突(対決)には見た目以上に色々な要素が詰まっているのである。なので優れたストーリーテラーほど、本質的なテーマを対決の形で見せるのである。

もちろん、シンプルにバトル自体も楽しい。

映画とアレア

映画は意図的にデザインされたものなので、乱数や偶然的な要素を仕込む余地は難しい様に思える。

あるとすれば、適当に借りたDVDの中にあまり知られていない凄い名作があったみたいなガチャ的なアタリ感だったり、予期せぬ形で個人的にタイムリーな何かを映画の中で観てしまうみたいな要素だったりするのかもだが、ざっと思いつくのは外部的要素だ。思いついた人がいたら、教えて欲しい。

映画とミミクリ

そもそも演技というものの面白さは、このミミクリ要素以外の何物でも無い。

加えて、映画の面白さとして求められるモノの1つが、感情の機微が上手く描けているだとか、人の本質がよく描けているだとか、社会がよく描けているだとかの要素で、これもまたシミュレーション要素だと言える。

いまいち意味も分からないままに、乱用されがちなリアリティがある/無いという表現も、この要素に起因している言葉に思える。(実際の所リアリティがあるという言葉には、再現度が高いというよりは、分かりやすい、理解しやすい、共感しやすいという意味合いが強く、後述のルドゥス的な要素が多く絡んでいるが…。)

また存在しないものを如何にそれっぽくシミュレーションするかというのも映画におけるミミクリの面白さである。リアルなクリーチャー、リアルな未来世界、リアルなエイリアン。

高度なミミクリが実践されている場合、意図せず映画に現実の世相が反映されたり、未来を予見することさえある。映画を通して、現実の問題と向き合うという事が可能なのはこうした要素があるからだ。

映画とイリンクス

そもそも映画の中の世界は、常にある種の非日常だといえるし、映画館という空間もイリンクス的な文脈で評価できる。

内容的な面では、ある種の見世物小屋的な要素がイリンクスだと理解すると分かりやすい。奇妙なもの、幻想的なもの、とにかく日常では目にすることが出来ない様なモノや出来事である。

ついでに3D映像だとか、座席が揺れたり、水しぶきを浴びたりみたいなギミックなんかもイリンクスに含まれるだろう。

ジャンルで言えば、ホラーは特にイリンクス要素が強い。日常では体験しないタイプの恐怖や、安心感を揺らされる感覚を求めて、客はホラーを観るのである。常識や価値観がぐらりと揺らされるという意味では、ホラーだけじゃなく社会派的なメッセージ含む作品にもイリンクスは含まれていると言える。

映画とルドゥス

映画におけるルドゥスで、まず思いつくのはお約束の面白さだろう。お約束は、短いギャグレべルの様なものから、戦隊がポーズをとったら背景で爆発が起こるみたいな演出レベルだったり、勧善懲悪だったり貴種流離譚といったストーリー全体の構造の場合もある。

ルドゥスは、あるべきものがあるべき所に収まるというルールの再確認作業でもあり、ある種の出来事から特定のルールや意味(教訓)を読み取ることもこれに含まれる。犯人や真相を推理するミステリーなんかも、パターン(ルール)を見つける娯楽として考える事ができる。

先に述べたホラーというジャンルは、説明が付かない、ルール化できないという状態(情報の欠落)を意識させると人は不安を感じるという性質を利用しているが、これは人はルドゥスを求めるという性質の裏返しでもある。ついでに言うなら、アレア(乱数、確率)に面白みを感じる(何かしらの意味を読み取ろうとしてしまう)のも、ルドゥスが関係している。

映画とパイディア

人はルールが好きだが、同時にルールがぶち壊されるのも好きである。お約束を前提にした裏切り行為だとか、意表をついたどんでん返しなんかはパイディア要素と言える。

ストーリーのテーマ的なレベルでも、刑務所からの脱獄だとか、抑圧からの解放だとか、古い慣習がぶち壊されるみたいな要素は、パイディアな気はする。また、ヴィランだとか怪獣が暴れまくる(=既存の価値やバランスを破壊する)みたいなのも、これに含まれる。

ルドゥスとパイディアは相反する感情ではあるが、人間の複雑さはこうした矛盾を抱えているという性質から来ている。ちなみに、ルドゥスとパイディアの衝突はアゴンであり、イリンクスはパイディアの変形でもあり、ミミクリはルドゥスに関係している。

映画と感情操作

人は自分の感情を揺さぶる為に映画を使う。この時、具体的に何をしているかと言えば、ミミクリである。映画を使って、共感という形で感情のシミュレーションをしているのだ。

なので、どういうタイプの感情を引き立てる道具かという視点は、映画を判断する基準になる。切ないタイプの恋愛感情なのか、ひたすらエロい感情なのか、ゾッとする様な恐怖なのか、尊さだとか怒りだとか、色々だ。

ちなみにインド映画なんかだと、喜怒哀楽等の全ての感情をバランス良く全部盛り込みなさいという美学が存在している。感情の栄養学みたいな考え方で面白い。ただ、知識としては知っていたが、この美学の真価を理解したのは、『バーフバリ』という傑作インド映画を観た際である。バランスよく、色んな感情を刺激すると、健康体操をした様なイメージで明らかに身体が軽くなるというか、確実に精神衛生が向上したのが実感できるのだ。芸術は心のサプリであり、映画は精神衛生を向上させる為の道具であるべきだという考え方をするなら、こうした要素についてもっと考えてみても良いはずである。

映画と表現

そして忘れてはいけないのが、映画は娯楽であると同時に表現であるという点だ。特定のメッセージを伝える方法は一つでは無い。ホラーとして伝えるか、ラブストーリーとして伝えるか、ヒーロー物として伝えるか、やり方は無限通りある。だからこそ、どう表現しているかという部分は、面白さの1つなのである。

例えばつい本日、アカデミー賞を獲得した『シェイプ・オブ・ウォーター』という作品があるが、人魚姫のプロットだとか、半魚人だとかを使わなくても、同じテーマの映画は作れたはずだが、敢えてそうした方法を選択している訳で、そこに表現としての意味や価値があるのだ。

ただこの表現という部分は、文脈が高度になりやすく、直感的には理解し難い部分でもある。『シェイプ・オブ・ウォーター』の場合であれば、監督が子供の頃から大アマゾンの半魚人が好きだったとか、怪獣オタクであるとか、そういう映画外の部分も関係してくるし、モンスターに余所者や変わり者やマイノリティーを投影する表現があるだとか、とにかく色んな前提知識が絡んで来る。そういう要素をフルに楽しみたい場合は、映画評論家なりの解説を聞いたりして勉強するしかないんだろうけども。

ただ、何で敢えてこういう表現をしたんだろう?という視点を持つことは、更なる面白さの発見に繋がるという事だけは主張しておきたい。

面白さについて考える

最初に述べた通り、最終的には俺はアゴン要素は好きだが、イリンクス要素は楽しめないタイプだみたいな趣味嗜好の話に着地してしまうとは思う。が…世間には、それとは異なる『〇〇は使えない、役に立たない』みたいな単にお前が使い方を知らんだけやんけ的な事例も多い。

解釈の仕方や楽しみ方は無限大な、作品の外部要素が絡みまくる表現の部分はともかく、それ以外の部分の楽しみ方に関しては、ちょっと自覚的になるだけで楽しめる部分が増えてお得なのでは?とも思える。

例えば、この映画はどんでん返しが無かったから駄目だとか…ありがちな三幕構成だったので駄目みたいな人なんかを見かけると、えっ、そこが全てだと思ってるの!?(単に趣味嗜好の問題かもだが)みたいな、損してない!?という気持ちが湧く。ので、書いてみた次第である。ここで挙げたのは、最もベーシックなレベルの娯楽要素であって、実際はもっと楽しみ方は色んな要素があると思う(好きな俳優を追いかけるだとか)。娯楽全般に応用できる話ではあるので、入門用に参考になればと思う。


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by cemeteryprime | 2018-03-05 23:31 | 雑記 | Comments(0)

【雑記】道具論

ホモ・ファーベル

道具を作ること…これは間違いなく人にとっての本質中の本質だろう。ここでいう道具とは、単に武器や日用品といった具体的な道具だけではなく、言語や思想や科学知識といった概念的な道具も含まれる。

人は道具を作り、道具を愛する生き物である。そして、同時に忘れてはいけないのが、人は道具の奴隷になりやすい生き物でもあるという点だ。

道具の奴隷になる

人は色んな道具を作るが、中でもとりわけ好きなのがルールという道具である。人は社会的動物であると表現されることもあるが、ルールが無ければ共同体も成立しないのだ。

こうしたルールに関連する概念の内、人間にとって、とりわけ危険な存在となったのが、『神』という概念だろう。

神は実際の所、特定のルール(宗教)の根拠として創られたキャラクターだと表現することが出来る。もしかしたらルールという概念と同時に誕生した可能性もあるが、恐らく神という概念が生まれる前段階においては、人々はルールの理由や意味をいちいち説明していたに違いない。しかし、ルールが増えるに従って、そんなもんケースバイケースだからルールとして厳守する必要ある?みたいな面倒くさい事を言うやつが現れ始めたに違いない。

ルールはルール。神がそう決めたの。神は全ての人間の親みたいな存在だから、言うこと聞いとけば良いの!最終的にはこうなるはずだ。

権力という仕組みも、ルールに関する道具である。集団で何かをやる時はリーダーを決めた方がスムーズに事は運ぶ。リーダーに従えば常により良い結果が得られるかどうかはさておき、いちいちみんなで議論して行動するよりも、スピードアップが図れることだけは確実だろう。

神や権力というシステムは、みんなにとっての便利な道具ではなく、一部の人にとっての都合の良い道具となり、多くの人を苦しめる仕組みに発展したのは周知の事実である。神や権力の名の下に一体どれだけの人間が犠牲になっただろうか。

通貨なんかも、人を奴隷化した道具の1つだ。もっと身近な例で言えば、オタクが何かのキャラだとか道具に入れ込んで、それが生きがいになったりするケースなんかもこれにあたるだろう。漫画家が、大ヒット作品を描いてしまったが為に、連載終了を認めてもらえず延々と続きを描き続ける状態も同じかもしれない。

道具に頼るとき

道具のメリットは便利な点だが、これは同時にコミュニケーションの断絶も発生させている。

先に述べた、神や権力といった概念は、いちいち相手に説明したり、納得させる手間を省く為のシステムである。企業における社長と新入社員といった役職も、いちいち仕事をする上で全員が綿密にコミュニケーションをとる必要を無くす為の制度であると言い換える事が出来る。この様に会話を省略する機能があるのだ。

また、仕事の効率化を図る便利な道具は、それまでなら3人や4人がかりで可能であった仕事を、1人で出来るようにしてしまう点で、これまたコミュニケーションの機会を奪っていると言い換える事ができる。便利な道具は、人と人とのコミュニケーションを省略してしまうのである。

コミュニケーションの為の道具も事情は同じだ。同じことをする為に必要だったはずのコミュニケーションや人間関係はやっぱり省略されているはずで、更にコミュニケーション方法の多様化によって、コミュニケーションの仕方が限定的というか断片的になるという要素も発生する。とは言え、人はこうしたコミュニケーションに関する労力の低下を好む。何故なら、コミュニケーションは面倒くさいからだ。

ちなみにTRPGやストーリーの創作において、あまり便利な道具が好まれないのも似たような理屈に基づいている。便利な道具は、人間の活躍の場を減らすからだ。更にコミュニケーションの機会が減れば、ドラマ要素も減ってしまう。少なくともストーリーにおいては、面倒臭い衝突(コミュニケーション)が面白さになるのである。

物を愛でる時

人が物を愛でる時、同時に人間は愛でることは出来ない(当たり前だが)。なので、物を愛でる行為も、ディスコミュニケーションの変形だと表現することができる。

仏陀の様に、究極的に自分と向き合えば、あらゆる心の隙間は根性で埋めることが出来るが、普通は他人と交流することでそうした隙間は埋める(余計に傷が広がる場合もあるが)。それが面倒くさい場合は、便利な道具に頼る。映画、漫画、お金、車、ドラッグ…なんでもいいが、道具は常に手軽で便利である。

人と向き合うというのは、基本的には面倒くさい。それ故にディコミュニケーションへの欲望というものを人は常に持っている。物を愛し、権力を愛し、テクノロジーによる簡略化されたコミュニケーションを愛するという行動は、1つの文脈で説明できるのである。

複眼視的な想像力

人はなにかを理解しようとする時、脳内タグを利用する。概念を活用する、知識を用いて分析するという表現をすることもできるが、敢えてタグという表現を使わせてもらおう。

例えば、ハサミが目の前にあるとする。脳内タグは『紙を切るもの』『文房具』という感じだろうか。ついでに、『ハサミ』という名称もタグの1つだ。

しかし、タグに囚われ過ぎるとハサミが持つ性質や可能性を見失う場合もある。例えば、ハサミは先端をマイナスドライバーの様に使えるかもだし、凶器の様に使えるかもしれない。

対象の理解を助けるどころか、逆に理解を遠ざける様なタグの使い方もある。そういう際にこの脳内タグは、ステレオタイプだったり、レッテルだったり、という呼ばれ方をする。

人と直接、コミュニケーションをとっていても、このタグのせいで全く相手と向き合わないでいることも可能と言えば可能だ。人が他人に対して、徹底的に冷酷になれる際は、こうした脳内タグを悪用しているケースが多い。こいつは〇〇だから、何をされても文句は言えないだとか、〇〇だから禄でも無い奴に違いないだとか。

法律とモラル

神が定めた宗教的なルールの中で、生活に関わる最大公約数的なモラルに関する部分だけを、できるだけ宗教色を薄めて抜き出したのが、法律であると言える(実際にはもっと広範囲のルールを含んでいるが)。

モラルの在り方というのは厳密にルールとして定義づけすることはできない。正しさというものは、最終的には文脈次第な所があるので、ケースバイケースになりやすいからだ。なので、基本的にはモラルを持って生活することが前提で、細かいモラルの食い違いが発生した時に法律という道具を使うという運用が想定されている…はずである。

しかし、時に法律はモラル違反を正当化する為に悪用されてしまう。ルール上は問題ないだとか、法律で禁じられていないからやってもいいのだと、主張する人間が定期的に現れる。宗教の場合であれば、モラルには反しているが、戒律上は問題ないみたいな話をしても誰も耳を貸さないだろうが、法律になると事情は変わる。法律は宗教より道具として使い勝手が良い分、本来の目的を離れ、手段であった法律の方を優先してしまう現象が発生しやすいのである。

便利さが奪う時間

法律がモラル違反を助長させる道具として作られたとは誰も思わないだろうが、現実には助長する原因にもなりうる。

法律が増えれば増えるほど、モラルについて考える時間は少なくなっていく。いちいち説明してられないので、ルールはルールだから守れと言われる機会も増えていく。その結果、モラルは持たないが、ルールには従うという人間が増えるたとしても、何の不思議は無いだろう。そしてルールを逆手にとった悪人が増えれば、更に新たなルールが必要になるという負のスパイラルに突入するのである。また、こうした人間は、究極的にはバレなきゃセーフという発想に着地しやすいのも問題ではある。

銃についても、こうした観点から問題性を指摘することが出来る。誰かを殺したいと思った時、ハサミしかないのと、銃があるのとでは大きな差が出る。銃は引き金を引けば終わりだ。一方、ハサミで殺すのは難しいだろう。手間がかかるという事は、考える時間が与えられるという話でもある。カッとなって10秒以内に殺してしまえる状況と、3時間はかかる状況では、事情が異なるのである。

なので、便利な道具は考える時間を奪うと表現することも出来る。何でもかんでもネットで検索するせいで、本来なら答えを見つける過程で得ていたはずの知識が得られずに終わるみたいな現象は、よく知られているが、こうした要素はあらゆる道具に付随していると考えていいはずである。

総括

道具は便利だがデメリットも多いという話を、最近観た映画や読んだ本の内容に照らし合わせる形で、本質的な部分についてのみ、幾つかまとめてみた。


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by cemeteryprime | 2018-03-05 00:20 | 雑記 | Comments(0)

【雑記】ヒロインとライバル

イカしたヒロイン

個人的に空気にならないイケてるヒロイン像というものがある。それは、勝ち気でトラブルメイカーなヒロインである。

最近観た映画だと、バーフバリのデーヴァセーナ姫は正にそのタイプだった。デーヴァセーナは、武芸を好む勝ち気なお姫様で、少なくとも自分より強い相手じゃないと結婚したくない!というタイプだ。バーフバリは武芸の達人であり、更に腰の低いナイスガイだったので理想の相手だ。しかし、バーフバリはデーヴァセーナとの結婚が原因で、国王代理をしている義理の母に背く事になり、時期王の座を失ったばかりか、縁を切る羽目になる。しかし、その結果、民衆の中で暮らし逆に偉大な王としての徳を高めてゆくことになり、その徳はバーフバリ(息子)に引き継がれることになるのである。

デーヴァセーナは、私と王位のどっちをとるの?私と母親のどっちをとるの?私と法律どっちをとるの?みたいな究極の選択をガシガシぶつけて来る。そして、それに対してバーフバリはウダウダ悩まずにスパッと答えを出すので余計に格好良く見えるのだ。

こんな感じでデーヴァセーナは、バーフバリを苦境に追い込むのだが、それによってバーフバリの男前度は更に上昇し、試練が彼を更に強くするのである。バーフバリJr,ことシヴドゥの恋人サンガもデーヴァセーナほど強烈ではないが、男勝りな戦うヒロインで、シヴドゥを戦いに誘う役割を担っている。

勝ち気でトラブルメイカータイプのヒロインというのは、主人公を戦いに誘い、苦境に追い込む。しかしその結果、主人公は己の弱点を認識し成長するのである。

単に主人公を励まし受け入れてくれる都合の良いだけのヒロインと、トラブルを引き起こしまくるヒロイン、どちらがより主人公の魅力を引き出し、ストーリーを面白くする存在であるかは言うまでもなかろう。トラブルメイカータイプのヒロインこそイケてるヒロインであるというのは、そういう理由である。

この手のヒロインは、恐らく現実的には面倒くさそうなので関わりたくないが、ストーリー的には魅力的というタイプである。多分、作者がヒロインに自分の理想女性像を投影してしまうとこういうタイプにはならないのではなかろうか。あくまでストーリー上の都合による理想のヒロインという感じである。また、こうしたタイプをヒロインにするには、この面倒くささを上回る魅力を与えないといけないので、それなりの技量も必要になるだろう。

ちなみに私が大好きな金庸先生の武侠小説に出てくるヒロインもこのタイプが多い。勝ち気なトラブルメイカーだけではなく、世間知らずで天然なトラブルメイカーだとか、主人公の気を引きたくてわざとトラブルを引き起こすサディスティックなタイプとか、主人公の為に気を利かして余計なことをするタイプだとか、師匠みたいな感じで試練を化して来るタイプだとか、金庸先生はトラブルメイカータイプのヒロインにも色々あるんだなという事を教えてくれる。

トラブルメイカータイプというと聞こえが悪いが、何か使命を持って戦うヒロインというのも勿論これに含まれる。戦うヒロインがノーマルモードだとしたら、次々とトラブルを引き起こすトラブルメイカーヒロインはハードモードという感じだ。

イカしたライバル

こうしたヒロインの役割はよくよく考えると、実質的にはライバルと同じである事が分かる。魅力的なライバルというものは、主人公の弱点を付き、苦境へと導く存在である。ライバルの場合は、基本的には悪意や敵意からの行為という違いはあるが、結果的に主人公を成長させる役割を担っているという点は同じである。

ライバルキャラが味方になった途端に魅力を失う場合があるのは、こうした主人公を苦境に追い込むという機能も同時に喪失しがちだからだろう。味方にはなったが、主人公に試練を課して来たリ、トラブルを招いたりするような役割を維持することができれば、こういう問題も上手く回避できるかもしれない。

ヒロイン以外の仲間も、トラブルを引き起こさないよりは、どんどん引き起こす方が良いに違いない。性格的に欠陥があり、いつもトラブルを呼び込むがどこか憎めないタイプのキャラクターが仲間にいることは多い。お金に目が無かったり、女性に目が無くて、危険な仕事を引き受けてしまうタイプだ。

そういえば、GS美神という漫画(これも大好きな作品である)は主人公が美神さんと横島くんで実質2人な上に、どっちもトラブルメイカーだった。美神さんは主人公とヒロインを兼任しているし、横島くんは主人公とトラブルメイカーな三枚目を兼任しているという稀有な(そして最高な)作品である。

ストーリーの解剖学

ライバルやヒロインに関わらず、ストーリー的に意味がある、存在感があるキャラクターというのは、結局の所は主人公に試練をもたらす存在であるという事なのかもしれない。

また、この法則はキャラクターだけではなく、イベントにも適用できる。主人公に何の成長のきっかけも作らないイベントというのは、結局の所は無くても良いイベントであって、ストーリー的にはあまり意味が無いとも言える。

…みたいなことを、『ストーリーの解剖学』という本を読んでいて改めて気付かされたので書いてみた。ちなみにこの本では、ストーリーに必要なのは変化は変化でも、主人公の内面性(道徳観)の変化(=成長)であるといっている。成長と呼ぶとポジティブなイメージがあるが、目的は手段を正当化しないという道徳観から目的の為には手段は選んでられないという道徳観への転向も立派な変化である。

ちなみに『ストーリーの解剖学』は、一通りシナリオロジックを理解している人向けの読み物という感じの内容で、入門ガイドの様な読みやすさや使いやすさは無いので、特におすすめはしない。


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by cemeteryprime | 2018-01-27 10:39 | 雑記 | Comments(0)

【TRPG/雑記】コンテンツ消費における国民性とRPG

私はよくコンテンツ(書籍やゲームや映画やその他のエンターテイメントを含む情報)を食べ物に例える。食事とコンテンツはどちらも消費するものであり、生きる上で必要だから消費するという事情(必須カロリーor基礎教養)と同時に、楽しむために消費するという側面を持っている。

大袈裟に言えば、生きるということは食べると同義であり、何をどう食べるかという指針は、人生をどう生きるかという指針にすら派生する。故に、何をどう楽しむかというコンテンツ消費の指針にも影響するのである。

食文化におけるおもてなし

コンテンツの消費スタイルを考える上で、1つ注目してみると面白いかもしれないと思ったものが、食文化における国民性である。

先日、TVを見ていたらコソボがクロアチアから観光事業における日本人誘致のノウハウを学ぶという番組をやっていた。クロアチアは近年、日本からの観光客が増えているらしい。そこでのクロアチアの観光業者のアドバイスに1つ興味深いものがあった。

それはざっくりとまとめると『日本人は出された食事を残すのを嫌うので、量は多過ぎないこと。少しづつ色んな種類を出すのがベター。』という内容だった。わざわざこうしたアドバイスをするということは、クロアチアやコソボには、「食べきれないくらいに沢山料理を出すのが贅沢であり、おもてなしである」という食文化が存在するのだろう。

例えば中国なんかでも、満足しましたのサインとして食事を残すという文化があると聞く。綺麗に食べきるのは、まだ満足していないので、もっと持ってこい(量が足りないぞ)というサインになるのだとか。

こうした海外の食文化には、おもてなしの作法として、とにかく相手にボリュームが足りなかったと思わせないようにしようにしなければという思想が汲み取れる。現代の食糧事情から考えると、質にこだわらず量を出すことは、そこまで難しくないのでいまいち贅沢感は薄い気が、昔は食糧の入手コストが安く無かった中でも出来るだけ量を多く提供しようという心意気がおもてなしだった、その名残りだろう。

考えてみると確かに味に関しては、特に多民族が共存している国の場合は、味の好みを把握することはかなり困難である。なので『美味しい食事』を提供する上での限界は認識しやすかったのかも知れないが、一方で量的な満足感に関しては予算と心意気次第でいくらでも努力は出来る。そういう事情があると、取りあえず沢山出しとくからその中から好きなものを選んで満腹になってくれれば良いという発想になるのは不思議ではない。

一方、日本の場合は出されたものは残さず食べるという美徳が存在する。これは個人的な想像ではあるが、日本の場合、食糧の入手コストが安く無かったという事情は同じだが、海外と異なり文化的な多様性や流動性は低かったので、『美味しさ』の方向性の限界はあまり意識されなかったのでは無かろうか。その結果、乏しい食糧を出来るだけ美味しく調理するという方向性に進化したのでは無かろうか。現代においても美味しさに関して『とろけるくらいに柔らかい』だとか『生で食べても甘い』が至高みたいな、固定観念はよく見かける。

美味しさの方向性がある程度担保されているので、量を求めなかったのだ。

コンテンツにおけるおもてなし

では、本題のコンテンツ消費に関する国民性に戻ろう。基本的にはコンテンツ消費に関しては、海外ではボリュームが、日本においてはボリュームより質が第一に求められるのでは無いかという話である。

最近、スカイリムSEとフォールアウト4という海外製RPGをプレイしているのだが、これらのゲームはとにかく分量が多く、そのジャンルにおける要素の百貨店といった様相を呈している。スカイリムやフォールアウトが提供するものは、言ってみれば、百貨店のデパ地下でやる時間無制限のバイキングみたいなものである。とにかく何でもあるので、好きなだけ居座って、好きなものを気の済むまで食べてくれというスタイルだ。

一方、日本の場合は、高いコース料理の様なスタイルが選択された。基本的に一本道で、出されたものを順番に消費する。日本のゲームは一本道と揶揄されがちだが、一方でストーリーのクオリティは評価されていたりする。

食糧と同じか、もしくはそれ以上にコンテンツのボリュームを増すのは金が掛かるので、その制約の中でどうおもてなしするかという部分で、基本的には同じ様な現象が起こる。

多様性が高い海外においてはバイキング形式でボリューム面を進化させ、日本ではコース形式でクオリティ面を進化させた。

コンテンツのボリューム

しかし、コンテンツと食事で異なる部分が1つある。特にゲームでそれが顕著だが、コンテンツの消費は食事と違って物理的な限界が薄いのである(時間的な限界はあるが)。近年では、技術的進歩もあってゲームのボリュームは増加傾向にある。

バイキング形式の場合、ボリュームが増せば増すほど単純にバイキング形式としてのクオリティは上がる。一方、コース形式でボリュームを増そうとすると、自然と糞長い一本道と化してしまう。これは共通の世界観(マーベルユニバースみたいな)を舞台にした全5巻くらいのタイトルが20作品提供されるのと、全100巻の1タイトルの作品を提供されるのと違いみたいなもので、後者は圧倒的に客層を選んでしまうし、完走できずに途中でダレてしまえば中途半端感も強くなる。コース形式は、ボリューム増加に対する拡張性が構造的に低いのである。

また、先の例で言えば、全5巻の作品を書ける作家を20人集めるのと、全100巻の作品を書ける作家を1人集めるのでは、供給サイド的にも圧倒的に難易度が異なって来る。プロジェクトの構造としても、前者はボリュームアップしやすいという利点があるように思える。

バイキング形式と日本人

海外RPGに馴染めない日本人ゲーマーというのは一定数いる。思うに、出されたものは残さず食べるという思想に縛られすぎているせいで、気ままにバイキングをするタイプの贅沢を享受しにくいのかもしれない。

TRPGを遊ぶ際にも、正解ルートだったかとか、シナリオ回収率をやたらと気にするプレイヤーは珍しくない。個人的にはRPGは自由にストーリーを作って遊ぶゲームだと考えているので、そこに拘るのはゲームの主旨から外れている様に感じるのだが、それでも自分がプレイヤーとして遊ぶ際には何となく見逃した要素は無かったのだろうか?とかつい考えてしまったりする。

まぁ、もっとより良い方法があったのでは?という懸念は人生にはつきものだし、貰い忘れは無かっただろうかという不安もコンテンツ消費における国民性というよりは単なる貧乏性だと言えなくも無いが。

おもてなしの精神について

自分が考える厳選された美味い料理を残さず相手に食べさせるのでは無く、好きなモノを好きなだけ相手が選んで食べられる環境を提供する。こうした消費における哲学は、グローバル化や多様化が進行した現代環境ではより好ましい様に思える。

とは言え、日本においては未だに前者の思想が蔓延っている様に思える。消費の多様性が存在する環境下では、美味しさの追求とは、クオリティの追求というよりも、作家性の追求という要素が大きい。

勿論、エンターテイメントにはメディア毎に共通の文法が存在するので、単純にクオリティを追求することも可能ではあるのだが、TRPGの場合だと大抵の場合、調理の腕はアマチュアレベルなのに、シェフが独自に味を追求したメニューを提供してくる事が多い。というか、それが一般的である。つまみ食いレベルなら、風変りな味でも新鮮味があって構わないかもだが、合わない料理のコースメニューをフルで提供された場合は、二度とその店には行きたくなくなる事は必至である。

極端な言い方をするなら、ジャングルの原住民が歓待と称してイモムシの丸焼きを提供してくるみたいなもんである。原住民の場合は、相手が自分たちと同じものを食べるかどうかで分かりあえるかどうかを測る意味合いがあるだろうが、単純に楽しく遊びたい時にそうしたテストを受ける筋合いはあるまい。それ故に、コンテンツにおけるおもてなしの精神というものも考えてみる必要がある。

TRPGの場合

カレーを提供すると看板を上げた店に来てみたのに、究極の納豆カレー1品しかありません。みたいな事態は避けるべきだが、現状では割とまかり通りがちだ。そうなった時、店が悪いのか、期待する方が悪いのか。運良く納豆カレーが好きだった場合は幸運だが、大抵の場合は他のカレーが食べたかったんだけどな…とか、納豆が嫌いなんだが…と思いつつも、店主が目の前にいるので渋々食べる羽目になるのである。

しかしながら、こうした構造は普段あまり意識されることはない。TRPGをやった際に、即座にコンテンツ消費における国民性やおもてなしスタイルがどうのこうのと議論する人がいれば異常者の類だろう。

TRPGの場合は、もはやコンテンツではなくコミュニケーションを求めろみたいな説もある。食事では無く店の雰囲気だとかマスターとのお喋り(文字通り)を楽しめみたいなオシャレなBarスタイルである。コミュニケーションに飢えた人ならそれでもいいかもしれないが、こっちはコンテンツを食べに来てるんだという客からすればたまったもんでは無い話ではある。

スカイリムやフォールアウトがそうだが、海外製のRPGは、そのジャンルで客が欲しがりそうなものをとにかく沢山用意してやるという思想が背景にある。多様性のある消費環境下における、おもてなしスタイルである。それ故に、海外RPGのシナリオというモノは資料やイベントの詰め合わせの様相を呈しており、所謂日本人がイメージするシナリオ(ストーリー)の形にはなっていない。こういうコンセプトのバイキング形式ですという説明と、置いてある料理の内容が並んでいるだけだ。

逆にストーリーの形がはっきり見えるシナリオというのは、所謂コースメニューに他ならない。こういうコースになっておりますと、事前にメニュー表を見せてもらえるならまだいいが、ネタバレ厳禁等で大抵の場合は教えてもらえない。中途半端なシェフほど、コースメニューの構築に心血を注ぐ。客を最後まで楽しませる為のコースの構築というものは繊細な作業なのだ。そのコースは、本格中華かもしれないし、本格和食かもしれない。でも、客が中華が好きじゃなかったらどうするつもりだろうか。

同じ様に労力を注ぐなら、コース構築ではなく、メニューを増やしてみてはどうだろうか。寿司があれば、餃子もある、カレーもある、ピザもあるといった感じで。イベントの引き出しを増やすのである。その客がピザが好きだと判ったら、イタリアンのメニューを増やしておく。コース料理の場合は、1カ所を弄れば全体のバランス修正を加える羽目になるので拡張性が低いが、バイキング形式なら無限の拡張性がある。100本のストーリーを用意しても、結局遊ぶのはその内の1つだけである。だったら、100個のイベントを用意してやって選ばせてやれば確実に客の満足度は高くなるだろう。

どちらが望ましいおもてなしの形かは言うまでもあるまい。


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by cemeteryprime | 2017-12-21 19:24 | 雑記 | Comments(0)

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