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【映画感想】ボス・ベイビー

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結論

それなりに面白かった。

メッセージ性はそれなりに立派なモノだと思ったが、アニメとしての面白さとメッセージ性のバランスが少し悪かった様に思える。

ただ基本的に赤ちゃんギャグが多めで劇場の雰囲気的に子供には凄く受けていたので、大人にはしっかりとしたメッセージを届けつつ、子供には娯楽アニメとして素直に楽しんでもらうという、目的は上手く行っていたと思う。

所々、テンポが悪く感じる部分があり、大人向けメッセージの部分が露骨過ぎるとも思ったが、あまり巧妙にメッセージ性と娯楽アニメ性を一体化させていると、メッセージ性が伝わらない可能性が高いことを考えるとこのくらいのバランスがベストなのかもしれない。

あらすじ

ティム・テンプルトンは想像力豊かな7歳の少年。両親に溺愛されていてティムはそんな生活を満喫していたが、ある日テンプルトン家に赤ちゃん(ティムの弟)がやってきたことで、状況は一変してしまう。

両親は朝から晩まで手間のかかる赤ちゃんの世話にかかりっきりになり、ティムは放置されてしまう。こいつはテンプルトン家を乗っ取る為に送り込まれてきた悪い奴なのでは?というティムの疑心暗鬼は膨らんでいき、ついに赤ちゃんが外部の何物かと会話している現場を目撃してしまう。

赤ちゃんはボス・ベイビーと名乗り、あかちゃん株式会社から送り込まれてきたエージェントだという。赤ちゃん株式会社の使命は、可愛いペットに人間の愛情のシェアを奪われつつある赤ちゃんのシェアを回復させること。品種改良でどんどん可愛らしくなるペットのワンちゃんが赤ちゃんにとっての一番の脅威なのである。そして、ティムの両親はそうしたワンちゃんを開発する会社の社員なのであった。

任務が終われば家を出て行くというボス・ベイビーの話を信じ、ティムは両親の会社が新しく開発中の新商品の情報を手に入れる協力をすることになるが…。

面白さ

この作品は、冒頭から明確に想像力豊かな少年の主観によるマジックリアリズム物語ですと宣言している。更にエンディングでも「~という話だったのさ」という形で父から子供に聞かせる昔話であった事を改めて示す。

なので、比較的ハッキリと大人向けには寓話であることを宣言する作りになっている。

メッセージ性としてはシンプルで、両親の愛を奪い合う兄弟の姿は、社会における国民同士のいがみ合う姿のメタファーなのである。後から来た新参者や、手のかかる弱者に回すリソースは無いという態度は、赤ちゃんに対する子供っぽいライバル心を剥き出しにする主人公の態度に似ている。

もう1つ面白いのは、赤ちゃんのライバルが可愛いペット犬になっている所だろう。面倒くさい赤ちゃんよりも、人によって都合の良い存在になるように品種改良されたワンちゃんが、シェアを奪うという構図は、人が人ではなく便利で快適な道具に心を奪われる様になっている社会のメタファーでもある。

分かりやすいが…

そして、エンディングテーマとして、駄目押しの様に世界に必要なのは(今世界に足りていないのは)人を愛する心だという、ド直球な歌詞の歌も流れる。

全体的に凄く分かりやすいし、良いテーマなのだが、裏を返すとストーリーとしては、それくらいしか言っていないという話でもある。今、世界にはある種のブラザーフッド(兄弟愛)が足りていない。

後は、赤ちゃんという存在をある種の異種族として扱う設定面の面白さを掘り下げたり、延々と赤ちゃんギャグをするだけのアニメなのだ。

この作品も、リメンバーミーみたいに冒頭に短い『ビルビー』という動物アニメが同時上映されている。内容は、自分には関係ない他人だけど危なげで放置できないので助けてあげるうちに家族になるという、動物アニメ。

どちらもメッセージとしてはいまち毒が無いというか、ちょっと性善説的な部分にしか訴えかけていない印象が強いが、分かりやすいってのは良いことでもある。というのも、シェイプ・オブ・ウォーターやリメンバーミーという作品は明らかに傑作なのだが、メッセージ性に関してはいまいち伝わっていなくて残念…という光景をネット上ではよく見かけるからだ。深すぎるメッセージ性は伝わらない問題があるのだ。

その点、ボス・ベイビーはメッセージ性が拾いやすいし、誤読のしようもない感じで、これはこれで作品としての良い特徴だとは思う。ちびっ子には受けるし、大人向けの作品でもあるので、観に行って損は無いぞ!


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by cemeteryprime | 2018-03-29 14:19 | 作品・感想 | Comments(0)

【クトルゥフ神話TRPG】ホラーシナリオ作成の為の自己開示

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自己開示の必要性

ホラーには色んな方法論があるが、究極的に…もしくは本質的にリアリティのあるホラーを作る為に必要なものは、自己開示(自分の経験をベースにする事)である。

結局の所、自分の経験(感情)に基づいてホラーをデザインにする以上の方法は無い。…まぁ、あるかもしれないが、それが出来るのは一部の天才だけだろう。

例えば世界的なベストセラーホラー作家であるスティーブン・キングだって、小説家や教師が主人公の話を今までに何本書いてるんだって話である。

この様にプロだって自分の体験をベースにした創作を行っているのだから、素人は猶更真似をするに限るのである。しかし、巷に転がっているシナリオには、自己開示的な独自性を持ったものが少ない。借り物のモンスター、借りてきたモンスターに合わせた特徴の無い舞台…。自己開示こそ、手っ取り早く独自性とリアリティを出す近道なのに、素人に限ってそれをしないのだ(俺も含めて)

1つの視点として、素人には自己開示の仕方が分からないという問題があるのかもしれない。どう自分の体験をシナリオに取り入れたら良いのだろうか?

そこで、今回はラヴクラフトの作品を参考に、自分のどういう部分を取り込むかという方法論について紹介する。

社会は恐ろしい

ラヴクラフトのホラーのベースになっている、自己開示性は、端的に言えば社会は恐ろしいという感情である。大人になりたくないとう想いが強すぎて不登校になっていたし、鬱病気味になって引きこもりにもなっていた。結婚を機に、都会に出てからは、外国人だらけの街で就活に失敗しまくる日々を過ごして、より一層社会が嫌いになると同時に、人種差別主義を拗らせてもいる。

この社会/世界は恐ろしいという感覚は、後にモダンホラーと呼ばれる新しいホラーの源流にもなっている。それ以前のゴシックホラーの世界においては、モンスターとは遠く離れた場所に存在するもので、わざわざ出かけて行ったり、旅先で迷い込まないと遭遇しないものだった。要は、モンスターとか恐ろしいものというのは、特殊な事例であり、常識の外の存在であり、本来は正常である社会から排除可能な存在なのである。

一方、ラヴクラフトの感覚では、異端は自分の方であり、世界は実は恐ろしい場所なのである。なので、ラヴクラフトのホラーの特徴として、自分の愛する故郷をホラーの舞台にするというものがある。アーカムやダンウィッチやインスマスなどの、ラヴクラフト・カントリーと呼ばれる場所は、架空の町ではあるがラヴクラフトの故郷をモチーフにしているのだ。

一般的にモダンホラーと呼ばれるジャンルにおいては、舞台は自分の故郷だったり、住んでいる町だったり、家庭だったり、更には自分の心や記憶の中だったりと、身近な領域を選ぶことが多い。自分が所属している信頼しているホームの様な場所や存在が実は恐ろしいものだったと分かる以上の恐怖は無いだろう。

身近な例だとモダンホラー要素が強いジョジョの奇妙な冒険の第4部も舞台は、荒木飛呂彦先生の故郷をモチーフにしていたりする。

ホームの設定

なので、まずはホームとなる場所を設定しよう。自分の家、地元の町、親の田舎、高校、大学、就職先の会社もしくは業界。

人は人生において、複数のコミュニティに所属することになる。それぞれのコミュニティは、社会の縮図としても機能する。なので、社会=恐ろしい場所であるという世界観をシナリオに落とし込む際は、こうした自分がこれまでに関わって来たコミュニティを参考にすると良い。

シナリオを製品にする場合でもなければ、よく知る地元や自分の家がモチーフであれば、どこに何があるかのイメージは記憶を流用すればいいので、手軽にシナリオを作りやすくなる。

舞台は完璧にそのまま同じにする必要は無く、ラヴクラフト・カントリーの様にあくまで似たような場所にしても構わない。

また、そのシナリオを遊ぶプレイヤー同士で共通認識が働く場所があるなら(例えば大学の友達と遊ぶとか、地元の友達と遊ぶとか)、できればそこを舞台にしたシナリオにした方が良い。何故なら、舞台についての説明の手間が省けるからだ。自分たちが通う学校とよく似た学校を舞台にする場合、学校の見取り図だとか周辺地図なんかも要らないのである。特別にあるモノ、ないモノの説明を補足するだけで良いのである。

ヘイト感を汲み取る

シナリオのホームにしたい場所(コミュニティ)を決めたら、次はそのコミュニティにおける問題を汲み取ろう。

ムカついた、あるいは恐怖を感じたエピソードを記憶から掘り起こしてみよう。たいていの場合、人が絡むはずで、もしかしたら自分が問題の根源というパターンもあるかもしれない。抽出できたら、それをモンスターとして表現するのだ。

例えば先に挙げたラヴクラフトの例で言うなら、陽気で音楽を好み世界についてポジティブな生き方をしている様に見える黒人たち(所謂リア充)は、怪しげな太古を鳴らし、得体の知れない種族と混血している呪われた人外種族みたいな描かれ方をする訳である。リア充は、邪悪な世界に迎合している奴らなので、邪悪な種族であり、邪悪な思想を持ち、邪悪な神を崇拝しているに違いないのであるみたいな発想だ。

俺が社会で上手く行っていないのは、ユダヤ人であったり、在日外国人であったりの、世界的な陰謀であるみたいな発想も、こうしたヘイト感を汲み取ってモンスターを作る作業に近いものがある。レイシズムであるうちは分かり難いが、やつらの正体は実は爬虫類型宇宙人であるみたいな発想にまで到達するとあからさまにオカルトというかホラー表現の領域に近付く。まぁ、真面目にそういう事を言っている人もいるわけだが。

例えば、シナリオのホームを家庭に設定して、母親との不和をモチーフにホラーを作るなら、実は母親は爬虫類型宇宙人であったというオチにして、自分にもその血が流れているみたいな方向の恐怖を盛る感じにするみたいな応用が考えられる。これも一つの世界は恐ろしいという表現の在り方である。

基本的には問題を認識し、それを調べると信じていた世界/心を許していた社会が恐ろしいものだったと判明するという流れになる。

モンスターのデザイン方法

この手法を用いると、モダンホラーにおけるモンスターというものはだいたい人間を比喩的に表現したキャラクターか、恐ろしいパワーを持った人間という感じになる。一見そうとは見えないシリアルキラーなんかもこの部類だろう。

もうちょっと別タイプのモンスターを登場させたい場合は、モンスターが異常行動の動機になっている、もしくは問題の人物を背後から操っているみたいな形式をとると良い。例えば、怨霊に操られているだとか、生贄を捧げる事で願いを叶えてくれる邪神がいるだとか。

理解しにくい他人の言動の理由として、モンスターの存在を逆算するという手法である。例えば、気持ち悪いオタク野郎がいたとして、その原因を彼がいつも熱心に読んでいる本にあると考えるなら、その本は読んだ人間の心を操る魔導書として表現できる訳である。もしくは、そうした魔導書を配り歩く悪魔みたいなモンスターの存在を更に逆算するのも良いし、邪神の命ずるままに魔導書を書いている作者がいるみたいな構図を逆算する事も出来る。

この逆算という技を使うと、リアリティと荒唐無稽なモンスターを両立させることが出来るのでお勧めである。例えば、現実の事件であれば、オウム真理教事件なんかは、邪神を崇拝しているカルトとしてデザインして、邪神を信者を使って多数の生贄を集めるモンスターとして登場させる事も出来る訳である。

応用として、自分のコントロールできない衝動や悪癖の原因をモンスターに求めるという手法もある。家庭内暴力をテーマにしたホラーを例にすると、どうしても暴力を奮ってしまう原因として、例えば呪われているだとか、邪悪な血を引いているだとか、場合によっては被害者がそういう暴力を引き起こす体質のモンスターであるという逆算も可能かもしれない。

最後に、公害等のテクノロジーがもたらす社会問題をモンスター(たいてい怪獣として表現される)を使って表現するという手法もある。クトゥルフ神話だと例えば、宇宙からの色なんかは公害がモチーフになっているという説もある。

ラヴクラフト的なホラーを目指す場合は、最終的にモンスターを倒して問題が解決という決着をつける必要も特に無い。世界は恐ろしいという事実を突きつけられ、発狂したり死んだりして終わる形でも構わないのである。勿論、エンタメ要素を強めたいなら、最後はモンスターを倒して取りあえず一件落着という形に持って行っても良い訳だが。

まとめ

初心者であればあるほど、出来るだけ自分が知っている世界をモチーフにして、自分の経験や感情に基づいたホラーを作るべきである。個人的な体験に基づいていればいるほど、内容はオリジナルになるし、ホラーとしてのリアリティも加算されるのである。

クトゥルフ神話TRPGのルールブックに登場する神格やクリーチャーも、元を辿れば、誰かのそうした体験から生み出されたモンスターだったりする。なので、ルールブックのモンスターの設定に拘る必要は無い。流用できそうなモンスターがいれば、使えば良いし、適当に名前だけ借りてきても良い。

人は、他人の成功談や自慢話にはあまり興味を持たないが、恐怖体験や最悪体験には興味を持つのだ。そして誰だって、成功体験は持っていなくても、そうした体験は持っている。であれば、誰にでもオリジナルな興味深いホラーシナリオを作る可能性はあるという話でもあるのだ。是非、チャレンジしてみて欲しい。


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by cemeteryprime | 2018-03-28 01:00 | TRPG講座・考察 | Comments(0)

【創作】ベドラム

フランケンシュタイン・クロニクルを観ていて、フランケンシュタインの怪物として蘇生された男がベスレム精神病院に収監されている描写があり、その昔描こうとして面倒臭くなってやめた作品の存在を思い出した。

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タイトルはBEDLAM(ベドラム)。ビクトリア朝イギリスが舞台の19世紀アベンジャーズ系である。とある貴族の食客として飼われている奇人変人で構成された異能者チームが、ロンドンで発生する怪事件のトラブルシューターとして駆り出されるみたいな感じ。アラン・ムーアのリーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメンの影響を受けたというか、パクリ系である。表紙っぽいモノが残っていたので、発掘してきた。

主要メンバーは以下の様な感じ。折角なのでここで披露して供養しておこう。

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ナサニエル・ストランド

奇人変人を食客として抱える貴族。モチーフは孟嘗君。

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サイレント・アダム

死体から作られた人造人間で、サイコキネシスとテレパシーを使う。怪力系ではなく、超能力が暴走するタイプ。モチーフはフランケンシュタインの怪物。

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ロジャー・マンドレイク

植民地探検家。ヒマラヤの古代遺跡で悪魔に憑依され地獄先生ぬ~べ~状態になり、霊視能力を得ている。

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ピーター・ヤン

見習い道士。カンフー要員。

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“スパイダー”バーソロミュー

元盗賊団の首領で私立探偵。モチーフはヴィドックとアルセーヌ・ルパンとシャーロック・ホームズ。袂を別った盗賊団メンバーと敵対している。

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ファウスト

心霊医術と精神医学に詳しい医師で、悪魔召喚師。自身の研究を持ち逃げした悪魔召喚士の弟子を追いかけて、ロンドンにやってきた。

クトゥルフ・バイ・ガスライト

結局、このベドラムという作品のアイデアは面倒臭くなって漫画にはなってなかったんだけど、探してみたらシナリオは幾つか残っていて、ヴィランとかの設定もいろいろ残っていた。

よくよく考えたら、ベドラムの設定はクトゥルフ・バイ・ガスライト用のシナリオに大した調整とかする必要もなく、そのまま転用できることに気付いた。エネミーデザインが細かく出来てたら、後は微調整みたいなもんだし。

19世紀ヴィクトリア朝ものに限らないけど、異なる時代が舞台のシナリオでいちばん難しいというか、やり難い部分って、エネミーデザインの部分だと思うのよね。その時代っぽい脅威とか問題意識を拾う際にいまいちイメージを掴みにくいという。

その点、リーグ・オブ・エクストラ~のノリで、割り切ってサクッと敵キャラを作ると、後が楽というか、謎の気軽さが出て良いはする。難しく考え過ぎずに、現代シナリオでも通用するキャラを、レトロな記号で置き換えるみたいな手法。

とりあえず、過去の遺物もたまには掘り返してみるもんだわという学びを得た。

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ついでに久しぶりに落書き。ビクトリア朝っぽさもフランケンシュタイン要素もないキャラデザだな。


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by cemeteryprime | 2018-03-27 10:32 | 雑記 | Comments(0)

【TRPG】クトゥルフ神話TRPGの為のラヴクラフト論

クトルゥフ神話っぽさとは

クトゥルフ神話TRPGのシナリオを作る際に、クトゥルフ神話っぽさとは何かを考えたことは無いだろうか。クトゥルフ神話作品といっても千差万別だし、ホラーにも色んな種類があり過ぎる。クトルゥフ神話の設定にも厳密には決まりなんてあって無さそうである。では、何をどうすればクトルゥフ神話っぽさが出るのだろうか?

そんな時に、1つ指針になりそうなのは、原点であるラヴクラフトの世界観である。クトルゥフ神話の世界観は、ラヴクラフトの世界観から紡ぎ出されたものだ。ラヴクラフトの世界観を知れば、細かい設定に囚われずに、クトルゥフ神話の本質的なニュアンスを表現できるのでは無かろうか。

ラヴクラフト論

H・P・ラヴクラフト:世界と人生に抗って

ミシェル・ウエルベック,スティーヴン・キング/国書刊行会

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ラヴクラフト論については、ミシェル・ウェルベックという作家の『HP・ラヴクラフト、世界と人生に抗って』という本が最近邦訳されていて、とても分かりやすいのでお勧めする。この本を読めば、ラヴクラフトの世界観というか、抱えていた問題意識がかなり現代的なモノであった事に驚かされる。

ラヴクラフトは時代遅れであったと同時に早すぎた人物でもあった。要するに社会不適合者だった。それ故に生前は大衆的には評価されず、時代を経るごとに支持される様になっていった珍しいタイプの作家なのである。

クトルゥフ神話の特殊性

ラヴクラフトのというか、クトルゥフ神話の世界の特徴は、文学やホラーの世界だけではなく、コミックや映画やゲームや音楽と多岐に渡って広がっていった点だろう。そしてラヴクラフト自身もクトルゥフ神話のアイコン的なキャラクターとして消費されている。

もう一つ、特殊な点を挙げるとするなら、ラヴクラフト自身はクトルゥフ神話の顔として愛されているが、作品はいまいち読まれていないという点だろう。これは、作品が愛されているというよりも世界観…ある種の思想が支持されているという事に他ならない。

現代のクトルゥフ神話ファンも、恐らく感覚的にはその思想を嗅ぎつけているはずである。クトルゥフ神話の世界観に関する設定なんて、誰も正確に把握していないが、それでもこの世界観に惹かれるのは背景にちらつく思想が原因に違いない。

ラヴクラフトの思想

ラヴクラフトの思想の根幹にあるのは、端的に言えば社会不適合者としての苦悩であり、世界は気持ち悪くて邪悪なものであるという形で集約できる。

ラヴクラフトは時代遅れな保守的な人間であり、大人になることへの嫌悪感から無気力状態になって不登校の末にハイスクールを中退し、何年も引き籠りになったタイプの人間である。色んな意味で社会不適合者なのだが、こうした気質は現代の若者の方がより共感できる部分があるはずである。

なのでクトルゥフ神話の細かい設定に囚われず、そうした共感できる部分を活かせば、よりクトルゥフ神話的なシナリオが作れるのでは無かろうかと思う訳である。

そこで、ラヴクラフトを理解する為のキーワードを雑にまとめてみた。適当に参考にするもよし、興味が湧いたらウェルベックのラヴクラフト論を読むもよしである。

簡単な年表

3歳、父親が神経症で精神病院に入院。母の実家へ。

7歳、詩や物語の創作を始める。

8歳、父親が死亡。

12歳、天文学にハマる。

14歳、祖父が死亡して実家が財政破綻。

18歳、神経衰弱でハイスクールを中退(もともと欠席しがち)。

23歳、パルプ雑誌の読者コーナーに投書を始める。この頃から、同人雑誌にレビューとか論説とか詩とか色々投稿とかをするようになる。

25歳、自分でも保守系の同人雑誌を発行。

27歳、州兵と陸軍に志願するも母親の根回しで却下される。物語の創作を再開。

29歳、母親が精神病院へ入院。

31歳、母親が死亡。後の嫁と出会う。

34歳、結婚してニューヨークに引っ越す。嫁が事業に失敗。

35歳、嫁は仕事を見つけるも、就活を続ける。

36歳、嫁と別居して、田舎に戻る。就活を続ける。

37歳、アメリカ各地に旅行をする様になる。

39歳、嫁と正式に離婚。

47歳、小腸癌と栄養失調で病死。

精神病院

ラヴクラフトは父親を早くに亡くし、母親も比較的早く亡くなっている。父親の精神病院への入院の直接的な原因は梅毒らしいが、いずれにせよ両親が共に神経を病んで精神病院で亡くなっている。本人も鬱病気味で永らく引き籠っていた訳で神経質だったのだろう。狂気に対する恐怖感というものは人一倍強かったのでは無かろうか。

引き籠り

ラヴクラフトは18歳くらいから神経衰弱(無気力状態)になり、もともと欠席しがちだったハイスクールを中退して、その後の5年間は完全な引きこもり状態になった。物を書くどころか本も読まず、会話するのは母親くらいで、一日中パジャマという感じだったらしい。

これは単に病気だったという話だけでは無く、大人になること、社会に出ることへの嫌悪感という要素が強く、こうした傾向は以降の人生にも大きな影響を与えている。ちなみに、大人になることは地獄だというド直球なラヴクラフト本人の言葉も残っている。

童貞イズムと潔癖症

ラヴクラフトは基本的に社会が嫌いで、大衆を見下していて、永らく引き籠り生活を送っていた。身も蓋も無い言い方をするなら、明らかに童貞を拗らせていたとも言える。

これを踏まえると、ラヴクラフト自身は特に宗教に熱心では無かったが、ピューリタンの禁欲主義は評価していたというのも理解しやすい。

またラヴクラフトの作風の特徴として、金とセックスへの言及が無いという点がある。金やセックスという要素は生活に密接に関わる部分なので、ホラーやドラマで人の内面性を描く際は避けて通れない要素だが、ラヴクラフトの場合は避けている。

お金儲けとかセックスは汚い!みたいな傾向は、少年漫画にはしばしば見受けられる要素だが、少年漫画の場合はそこまで拗らせていないので、経済や恋愛をまともに描けなくても、エロには肯定的である。

そんなラヴクラフトも34歳で結婚している。ちなみに相手の女性は出会った際に7歳年上のバツイチでしかも16歳の娘までいた。更にいうならユダヤ人(異人種)でもあった。そして彼女はラヴクラフトにとっては初めての恋人でもあった様だ。

ラヴクラフトは結婚で変わろうとした様だが、拗らせすぎた性格は変わらなかったのか、2年後には事実上の離婚状態になっている。

心はジェントルマン

ラヴクラフトの理想の大人像は有閑貴族的なジェントルマンであった。金を稼ぐことを見下していて、金の為に人気が出る売れる作品を書かねばならない商業作家にはならず、あくまで趣味の延長線として作品を作るアマチュア作家として生涯を終えている。

ラヴクラフトはジェントルマンイズムの為に仕事を無料で引き受けたり、低価格で引き受けたりしていた。報酬が払われなくてもしつこく請求することは浅ましい行為として控えていたらしい。

しかし、実際の所、心はジェントルマンでも、経済的には常に困窮していた。早くに父親を亡くし、母親の実家も経済的に破綻していたので、かなり貧乏だった。離婚後辺りから、旅行を頻繁にするようになっていたが、貧乏なので基本的にはアメリカ国内のみである。本人はヨーロッパを旅行してみたかったようだが、そんな金は無かったのだ。

貧乏に苦しみながらも、己のプライドの為に凄まじい質素倹約でジェントルマンを続けていたラヴクラフトは、ある種のマゾでもあると言える。

ラヴクラフトのプライドの高さと社会不適合者性は、雑誌に自分の作品を送る際も、あくまで友人に勧められたから送るという体を崩さず、さらに一切の添削を拒否し嫌なら載せなくていいよという、高飛車エピソードで確認できる。ちなみに死んだ際は、貯蓄はほぼ0だったらしい。

就活の失敗

結婚を切っ掛けにラヴクラフトは初めて田舎からニューヨークという都会へ出た。しかし、嫁の事業が失敗し、就活をする羽目になる。ラヴクラフトはあからさまに社会不適合者だし、プライドも高すぎるのだが、それでも嫁の為に就活を続け、何百社もお祈りをされ続ける。

実はラヴクラフトが本格的に異人種嫌悪を拗らせるのは、この挫折感しかないニューヨーク生活が原因らしい。何故なら、外国人だらけで活気ある大都会において、心はジェントルマンなラヴクラフトは、永遠と企業にお祈りをされ続けて、移民だらけの貧乏アパートで生活する羽目になったのだ。

ラヴクラフトが大切にしてきたものなんか、屁の突っ張りにもならなかったのである。ラヴクラフトのヴィジョンに登場するおぞましい巨大建造物の街というのは、ニューヨークの事であり、不気味な異種族は活気ある都市にすむ移民や外国人だったのだ。

ニューヨーク生活は、ラヴクラフトにとっては最悪だったが、同時に創作活動においては最高の原動力にもなった。クトゥルーの呼び声、ピックマンのモデル、チャールズ・デクスター・ウォード事件、宇宙からの色、ダンウィッチの怪なんかも全てニューヨーク以降の作品である。

マゾヒズム

ホラーにおけるラヴクラフトの関心は、もっぱら異質な世界や、その気持ち悪さを描く事に向いている。こうした傾向は、人間を描写する事や日常描写の淡泊さにも繋がっている。

基本的にホラーというものは、日常から非日常の世界に突入し再び日常に戻るというサイクルをベースにしている。しかし、ラヴクラフトの場合は、そもそも世界そのものが邪悪で恐ろしいという思想が背景にあるので、淡泊な日常から始まり、非日常の世界に突き進みそのまま突き放してしまうという特殊な構造になっている。

恐ろしいモンスターを倒せば終わりというタイプのホラーは、あくまでもモンスターが異質な存在であるという前提に基づいている。しかし、ラヴクラフトの世界観においては、基本的に世界は恐ろしく異質なのである。実際にはラヴクラフト(≒主人公)が異質(社会不適合者)という話なのだが。

一般的な感覚においては、現実の社会で虐げられ社会不適合者であるなら、物語の世界においては、スーパーヒーローであろうとする。同時代のコナン・ザ・バーバリアンなんかは、まさにこの典型である。しかし、ラヴクラフトの場合は心はあくまでジェントルマンなので、物語の中ですら主人公は知的な弱者として描かれるのである。

民俗学

ニューヨークがまさしくラヴクラフトが嫌いな社会の象徴的な存在であったのに対して、ラヴクラフトは故郷のプロヴィデンスには強い郷土愛を示している。

ラヴクラフトの郷土愛や移民や異人種へのヘイトなどは、ナショナリズム的な文脈で理解できる。ナショナリズムは近代化への反動であり、時代遅れで社会不適合者なラヴクラフトにそうした特徴が見られるのは特に不思議ではない。そしてこれは、ラヴクラフト作品にみられる民俗学的な要素に繋がる。

そもそも民俗学とはナショナリズムの高まりと共に誕生した学問である。ベースになっているのは、失われつつある自国の古い伝統への関心であると同時に、侵入してくる異文化への関心でもある。それを踏まえると、ラヴクラフトが異質な文化や社会を表現する為に、民俗学的な要素をふんだんに用いたのも納得しやすい。古代文字だとか石碑だとか。

故郷

ちなみに、都市の住人が田舎や辺境をある種の異境として描くという事はホラーにおいて珍しくないが、ラヴクラフトの場合は故郷をホラーの舞台として用いたりする。こうした傾向は、実は世界は恐ろしいというマゾヒズム的な世界観とも関係しているのだろうけれど、身近な世界を恐怖の舞台にするモダンホラーの源流としても興味深い。

ラヴクラフトカントリーは、日本の読者にとっては辺境であり異界なのだが、ラヴクラフトにとっては愛する故郷であるという視点は案外抜けてしまう。勿論、ラヴクラフトは宇宙だったり、夢の世界だったり、南極だったり、太平洋のどっかだったりと、普通に辺境が舞台のホラーも書いてはいるが。

まとめ

大人になりたくなくて引きこもりになってハイスクールを中退し、ニートになり、童貞を拗らせ、嫌儲になり、都会で就活に失敗し続け、レイシストになり、結局性格的な問題でプロの作家にはなれずに、貧乏なアマチュア作家を続けて、生前は特に本とか出版されないまま死亡。

端的にまとめると、終わっとるやんという感じだし、負け組感が凄いが、だからこそ多くの人に刺さるのだろうと理解できる。普通は生活の為に色々と妥協してしまう訳だが、ラヴクラフトの場合は厨二病感すらあるプライドを守る為に不遇なまま死んでしまったのである。

確かに、生前は評価されなかった訳だが、そうしたメンタリティから生まれた作品と世界観は、多くのクリエイターに影響を与え、没後80年となった今でも、むしろ最盛期を迎えていたりする。

だからこそ、クトルゥフ神話の世界のどこに惹かれているのかという点は、改めて考えてみても良いはずなのである。


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by cemeteryprime | 2018-03-25 01:13 | TRPG講座・考察 | Comments(0)

【小説感想】ドクター・スリープ

ドクター・スリープ 上 (文春文庫)

スティーヴン キング/文藝春秋

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ドクター・スリープ 下 (文春文庫)

スティーヴン キング/文藝春秋

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概要

スティーブン・キングの傑作ホラー『シャイニング』の続編。前作の主人公であるトランス一家の息子、超能力(シャイニング)を持つ少年ダニーのその後を描く。

あらすじ

前作で父親を失った少年ダニーは、トラウマを抱えながらも母親とダニーと同じくシャイニングを持つ老人ディック・ハローランに支えられ、しばらくはまともに成長していたが、最終的には父親と同じ飲んだくれになり、酒で問題を起こす度に各地を転々とする生活を送る様になっていた…。

しかし、ダン(元ダニー少年)がどん底に落ちたタイミングで、僅かながらダンと同じシャイニングの力を持つ老人ビリーと出会う。ビリーからの救いの手が切っ掛けになり、その町で仕事を見つけたダンは、断酒会コミュニティに参加する様になる。

そしてダンは、新たなコミュニティとの付き合いの中で相互扶助と愛の精神に目覚め、シャイニングの力を使ってホスピスで死に臨む患者の苦痛や孤独を取り除くドクター・スリープと呼ばれる存在へと成長する。

そんな中、ダンは超強力なシャイニングの力を持つ少女アブラと出会う。パワーを持て余す孤独な少女アブラとの出会いに、かつての自分とハローランとの出会いを重ねたダンは少女を導こうとするが、やがてアブラはシャイニングの力を持つ子供たちを殺害しパワーを吸い取る恐ろしいヴァンパイア集団の存在を感知し標的となってしまう…。

面白さ

ドクター・スリープはシャイニングの続編であるが、ホラーでは無い。ジャンルとしてはダークファンタジーという所である。そしてホラーではなくなった所が、本作の最大のポイントでもある。

ホラーというものは、基本的にはある種の閉鎖的な境遇であり、孤立無援の状態で発生する。前作のシャイニングは正しくそうした状況で発生した物語であった。今作でもダンは、そうした状況に陥り、父親の二の舞になってしまう。しかし、それは序盤までの話である。

ダンは、断酒会コミュニティ(明らかに教会の役割を担っている)に参加する事で、自分が問題を抱えている事、人は問題を一人で解決できるほど強くはないこと、そしてだからこそお互いに助け合う事が重要であるという事を学ぶ。

だから、ダンは少女アブラをそうしたホラー的な閉鎖的な境遇から守ろうとする。世間にも両親にも理解されないまま、孤立無援の状態で恐ろしいモンスターと戦わなければいけないという状況を回避する為に、ダンはアブラを説得して、異能に否定的なアブラの両親も巻き込み、友人も巻き込んでいく。なぜなら、それこそがダンが学んだアンサーだからだ。

故に、今作はホラーにはならなかったのだ。シャイニングの力はダニー少年に孤独と恐怖をもたらしたが、成長したダンはシャイニングの力を使って、他人と繋がり孤独や恐怖を取り除くドクター・スリープとしての道を見つけたのである。ドクター・スリープは、続編であると同時に、シャイニングに対しるアンサーにもなっているのだ。

あと付け加えるなら、今作では最近のハリウッド映画で主流である愛というテーマの他にも、リメンバーミーにあったクソみたいな過去もきちんと受け止めようというテーマも登場する。なのでこの時代に書くべき続編であり、今読むべき作品になっているなと思う。


トゥルーノット族

ちなみに、本作の敵キャラである霊的なヴァンパイア集団はトゥルーノット族(真結族)と呼ばれている。

ダンたちが愛情で繋がっているチームなら、こっちは邪悪な目的で繋がったチームである。不老不死を維持する為に、シャイニングの力を持つ子供を拷問してパワーを吸い取って殺すのだ。また、資産はあるが、一つの町に長居できないので集団で町から町へと移動している。

トゥルーノット族は、人間を下民と呼んで見下しているが、恐らく元は人間だったのではないかと思われる。作中では明言されていないが、恐らくシャイニングの力を、他人から何かを奪う為に使用する様になった人間の成れの果てというのは、彼らの実態ではなかろうか。トゥルーノット族の超能力は、シャイニングの力で出来る事と被っているし、パワーを使ってオヤジ狩りみたいな事をしていた人間が仲間として勧誘されている描写もある。

それを踏まえると、正しくダンたちのダークサイド的な存在であるとも言える。

関連図書

ちなみにこの作品にはスティーブン・キングの息子で作家のジョー・ヒルのホラー小説『NOS4A2(ノスフェラトゥ)』とのクロスオーバー要素なんかもお遊び的に入っている。子供を攫う邪悪なスタンド使いな悪役のチャーリー・マンクスが名前だけだが出て来るのだ。

最近のキングはジョー・ヒルの影響なのか、超能力を持った中年や老人を主人公にした、コミック的(ライトノベル的)な要素の強いダークファンタジーを幾つか書いている。本作は『シャイニング』の直接的な続編ではあるが、そうした作品群の影響も強く感じられる作品でもあるので、先に読んでおいても良いし、この作品が気に入ったら読んでみるのも良いだろう。なので、関連図書を以下に挙げて置く。

スティーブン・キング作…

『不眠症』:不眠症を拗らせた結果、霊能力に目覚めた老人が主人公のキング版幽遊白書みたいな作品。超能力の応用として、エネルギードレイン能力が出て来る。

『悪霊の島』:交通事故が切っ掛けて霊能力と画家としての才能に目覚めた定年退職中年の話。想像力についての寓話であり、鈴木光司の「リング」みたいな展開も楽しい作品。

ジョー・ヒル作…

NOS4A2(ノスフェラトゥ):ジョジョの奇妙な冒険みたいな雰囲気の、異能力者同士が対決する話。スタンド使いが惹かれ合い、謎の連続殺人犯の存在に気付くという話なので、ジョジョ第4部に似ている。ジョジョ第4部は確実にスティーブン・キングのITの影響を受けているので、ITに現代的要素(マンガ的要素)を組み込んだら似たような話になったのだとしたら面白い。

『ロック&キー』…これは小説じゃなくてアメコミ。超能力が宿る不思議な複数の鍵を巡るダークファンタジー。続刊中だが、続きが出るかどうかは不明。


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by cemeteryprime | 2018-03-24 10:51 | 作品・感想 | Comments(0)

【映画感想】リメンバーミー

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結論

傑作。同時上映の『アナと雪の女王/家族の思い出』も傑作なので、さっさと劇場へGO

あらすじ/概要

主人公は、音楽が好きでミュージシャンになりたい少年ミゲル。しかし、ミゲルの一族は高祖父に当たる人物がミュージシャンとしての夢を追いかけ、妻と娘を捨てて家を出てしまったという過去があり、それが一族のトラウマとなっていて、あらゆる音楽を禁止する謎の文化を持っている。

ミゲルの一族は、高祖父に捨てられた高祖母が始めた靴職人という稼業を代々受け継いでおり、地に足着いた人生を送る事を良しとしている。

高祖父の存在は、黒歴史として消されているのだが、ひょんなことからミゲルは高祖父がミュージシャンであったこと、それも地元出身の伝説の国民的ミュージシャン、デラクルスである事を示唆する証拠を発見してしまう。

その発見を受けて、ミゲルはミュージシャンになりたいという夢を家族に告白するが、猛反対を受け、音楽コレクションを破棄され、ギターも破壊される。挙句の果てには正式に靴職人として家業の一員になることを迫られる。

死者の日(お盆みたいなヤツ)のタイミングで、家出をしたミゲルは、地元の音楽大会に参加してミュージシャンとしての第一歩を踏み出そうとするが、ギターは家族に破壊されてしまっている。そこで、ミゲルはデラクルスの霊廟からギターを借りる(≒パクる)のが、死者の日に死者から盗みを働いたせいで、呪われてしまい、生きながらにして霊界に迷い込んでしまう。

呪いを解くには、死んだ霊界にいる自分のご先祖様から許しを得る必要があるのだが、高祖母を始めとするご先祖様たちはミゲルがミュージシャンを目指さない事を条件として付けて来る。そこでミゲルは、音楽嫌いなご先祖様連中では無く、高祖父であるデラクルスを探すが…。

面白さ(ネタバレ含む)

この作品のテーマは、正しく歴史と向き合うこと、家族に向き合うこと、そして死者をリスペクトする事である。

例えがあまり良く無いが、ミゲル少年の状況は、日本に置き換えると、高祖父は大日本帝国で、家族は戦後の左翼で、ミゲル少年は今時のネット右翼という感じで解釈できる。

このネトウヨ版ミゲル君は、高祖父の存在は国家にとって悪であり黒歴史であり、とにかに駄目だから右翼的な思想も捨てろと、偏った教育されてきた訳だ。でも、右翼思想自体は魅力的で、ミゲル少年はこっそりハマってしまう。そして、きちんと過去に向き合わなかったからこそ、ネットで真実みたいな感じで、歪んだ真実…高祖父=大日本帝国は実はスーパースターだったのでは?という嘘が入り込んでしまうのだ。

映画を観れば分かるが、最終的にミゲルの高祖父はデラクルスでは無かったことが判明する上に、デラクルスはとんだインチキ野郎だったことも判明する。

ミゲルの一族は、過去のトラウマから目を逸らし続けた結果、ミゲルという家族にきちんと向きわず、結果としてミゲルを嘘の世界に追い込んだのである。

この場合の嘘の世界とは、デラクルスは偉大なミュージシャンであり高祖父でもあるという世界観と、死後の世界という嘘(=想像上)の世界でもある。

死後の世界と死者

この作品のもう一つの面白さは、死後の世界や死者を扱っている点だ。当たり前の話だが、死後の世界や死者の霊というものは、物理的には存在しない。概念的な存在である。語弊のある言い方をするなら単なる嘘とも言えるし、意味のあるフィクションであるとも言える。

つまり、リメンバーミーという作品はフィクションの世界についてのフィクションなのだ。リメンバーミーにおける死者というのは、人間としての肉体を喪失して純粋にキャラクターとなり、業績を称える物語や家族の昔話の中の登場人物となった存在でもある。だから、忘れられるとキャラクターとしての第二の死を迎えるのである。死者の第二の死の話というのは珍しいが、キャラクターが忘れられると死を迎えてしまうという話自体は、そんなに珍しくは無い。

もう1つ注目したいのは、デラクルスが他人が作った曲を盗んだという話である。先に述べた様に作品も死者も、創作物であるという点では同じである。では、単なる創作物を何故重視する必要があるのか。

それは、あらゆる創作物の誕生には、無数の人生が関わっているからである。死者は一人の人間の人生が元になって生まれるキャラクターであり、語り部たちの想いも込められる。曲には、作者の色んな想いや人生経験が込められているし、あらゆる創作物は先人の創作物をベースにして作られてる。

作品や死者へのリスペクトは、実在する、もしくは過去に実在した人々へのリスペクトにもなるのである。更に言うなら、モノを作るというのは人間の本質である。人間は子孫以外にも、沢山のモノを作って残すのである。死者としてのイメージもその1つだ。そういう意味では、あらゆるモノは実は人類の親戚とも呼べる存在なのである。故に、モノを軽視することは、人間の本質を否定する事にも繋がるのである。

ちなみに、エンドロール後というか途中で、沢山の遺影みたいな写真が出て来る。誰の写真なのかは知らないが、リメンバーミーという作品を世に出すに当たって直接なり間接的になり貢献した人々なのだろう。彼らはミゲルにとってのご先祖様に当たる訳だ。…という演出もあるので、エンドロールも最後まで観てあげて欲しい。

覗いてみれば

嫌なものがあるからと目を背けずに、過去としっかりと向き合えば、素晴らしいものがあるかもよ?というのは、リメンバーミーのテーマであるが、作中では更なる嫌なものを発見する可能性にも触れているのがバランス的に素晴らしい。

嘘の世界に追い込まれたミゲルは、結果的にではあるが、作中で憧れの存在であったデラクルスが糞野郎で、尚且つ高祖父を殺した犯人であったという衝撃の真実に到達する。勿論、それ以上に嬉しい真実も掴むのだが。

更にミゲルの高祖父が作曲していたという歴史的な事実が明らかになったお陰で、エンディングでは高祖父の未発表の曲も発掘された事が分かる。過去に向き合うこと、家族に向き合うことの、ポジティブなメッセージだ。

アカデミー主題歌賞

この作品を観る前は、グレイテストショーマンを抑えてアカデミー主題歌賞だと?どれほどのもんじゃい!と思っていたのだが、観て見ると納得度が高かった。

というのも、リメンバーミーの場合は、音楽自体はそこまでメインテーマでは無いんだけども、だからこそ主題歌の使い方が上手かったとも言える。曲自体がストーリー上重要な意味を持つガジェットとして機能していたし、何度も作中で歌われ、更に場面によって色んな意味を持つという風に、とことんこの主題歌の魅力を引き出す工夫があったと感じた。

一方、グレイテストショーマンの方は、曲自体は凄く良いんだけど、そもそもミュージカルだという事もあって、色んな名曲がそれぞれの良さを主張し、複数ひしめき合う構成になっていたので、主題歌が突出して機能していた感じが低かったのかもな~という印象。

個人的に曲単体としてはグレイテストショーマンの方が好きだ。

家族の死

もの凄い個人的な話になってしまうが、リメンバーミーを観て感動した翌々日に、同居していた祖母が死んだ。祖母はかれこれ10年ほど、ママココ以上にボケてしまっていて、リメンバーも糞も無いんだよという感じで要介護状態だったのだが、ボケて狂暴化とかはしなくてパンダの赤ちゃん状態で愛されていた。

曖昧になってる以外は特に病気とかもする事もなく、最期もこれ以上ないくらいにソフトランディング的な逝き方だったのも大きいが、そんな祖母の死が特別悲しく無かったのは、リメンバーミーという作品の影響もあったはずである。

リメンバーミーにおいても、ママココの死はかなりあっさり描かれているというか、むしろ良かったじゃんくらいに描かれている。タイミング良く似た経験をしたので気付いたのだが、リメンバーミーは家族と死者の世界の話なのに、家族の死を特にメインに描いていないというのは、実は割と特殊なバランスでは無かろうか。

ただ、ストーリーを観れば分かるが、リメンバーミーという作品は、実はミゲルの話であると同時にママココの話でもあった。父親と離れ離れになったママココが、ミゲルの手を借りて、父親と再会する話だったのだ。

リメンバーミーにおける死者の世界の描写は、実際の所、ミゲルの想像力が作った世界であるとも解釈が出来る。ミゲルの中の物語において、ママココはしっかりとした意味を持ち、収まるべき所に収まったのである。だからこそ、そこに喪失感や悲しみは無いのである。


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by cemeteryprime | 2018-03-19 20:49 | 作品・感想 | Comments(0)

【映画感想】アナと雪の女王/家族の思い出 (加筆修正版)

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ディズニー映画『リメンバーミー』と同時上映の『アナと雪の女王』の新作短編映画。長さは20分ほど。

結論

傑作。正直、全く期待していなかった(というか、同時上映の存在すら知らなかった)ので観てビックリした。

どうも世の中には『アナと雪の女王』の事が大嫌いな人や、『アナと雪の女王』というタグが付いているだけで観る価値なしと判断する人もいるらしい。

ハッキリ言って、『アナと雪の女王』のキャラクターと設定を使って、今だからこそ語らなければいけない物語を語っている作品である。

勿論、テーマ的に同時上映されているリメンバーミーにも繋がる内容にもなっている。

個人的に『アナと雪の女王』はレリゴー部分が良かっただけの作品だと思っているが、この作品に関しては紛れもない傑作である。なので、これからリメンバーミーを観に行く人は、舐めずに期待して真剣に観るべし。感動もするし、軽く泣きました。

あらすじ/概要

アナとエルサは、クリスマスの日に、クリスマスを祝うパーティーを企画して国民を誘うが、国民は各家庭でのクリスマスを祝う伝統があるからと完全にスルー。

自分たちの家の伝統を知らない事に気付いたアナとエルサはパーティーが出来ず、伝統を探そうと家族との思い出を掘り返す。

雪だるまのオラフは伝統を知らずパーティーが出来ないアナとエルサの為に、全国民の家庭を回って伝統を集めようとする。しかし、その帰り道、集めた伝統は爆破炎上し、オラフも失踪してしまう。

伝統を探して家族との過去を振り返っていたアナとエルサは、子供時代のタンスからあるモノを見つける。それは…

面白さ

驚くかもしれないが、この作品が描いているのは民主主義と国家の在り方であり、社会の本質について語っている。

クリスマスを祝うパーティーとは、祭り事であり、明らかに政治のメタファーになっている。アナとエルサは、国民を政治に招くのだが、国民はそれぞれの伝統(正しさ)に引き籠って、政治に参加しないのだ。

そしてアナとエルサは伝統(正しさ)を知らないので、パーティー(政治)が出来ない。オラフは、そんなアナとエルサの為に国民から伝統(正しさ)を集めるという話なのだ。これが民主主義についての話じゃなくて何だというのだろうか。

ただ最終的にオラフが集めた伝統は爆破炎上してしまい消えてしまう。これは現在の民主主義が正しさの在り方を見失っている状況を表現していると言える。

オラフ

ここから先はネタバレになるので注意。

家族の伝統を求めてエルサと自分たちの過去を探していたアナは、最終的に子供時代のタンスからオラフのヌイグルミを見つける。引きこもっていたエルサに贈ったプレゼントだ。

ここでオラフがアナからエルサへの『思いやり』のメタファーであったことが明かされ、更には国家の伝統の本質もまた『思いやり』であったことが、示される。

オラフを何も考えて無さそうだし能天気でウザいキャラクターとして描いた上で、実はそれこそが伝統の本質だったと示すのである。オラフ、ウザがっていて御免ね!という瞬間だ。

最終的にストーリーは、オラフの失踪に気付いたアナとエルサが、国民を巻き込んでみんなでオラフを探す形に着地する。

アナと雪の女王でやった意味

社会の分裂に対抗できるものは、思いやり=愛であるというテーマは、最近のハリウッド映画で主流となっているテーマである。

この作品の場合はそれに加えて、愛とはウザいものでもあるという部分もテーマに盛り込んでいる。

ウザいが、思いやりのメタファーでもあるオラフというキャラクターがいたからこそ、この作品は上記のテーマを見事に感動的に表現できている。国家の話をするという意味でも、アナ雪はピッタリである。

『アナと雪の女王』というタグしか見ていない人の中には、単に『アナ雪』人気に乗っかっただけの、ファン向け作品だろうと考えるかもしれないが、実際は冒頭でも述べた様に『アナと雪の女王』のキャラクターと設定があるからこそ上手く語れる物語になっている。今語るべき、観るべき物語なのである。

観たのに、内容が無いだとか、単なるアナ雪の便乗作品だとか言っている人もいるが、辛辣な言い方をしてしまうと、無いのはお前の頭の中身だろうという話である。折角の傑作なので、謎の偏見に囚われず、きちんと観ることをお勧めする。


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by cemeteryprime | 2018-03-17 20:10 | 作品・感想 | Comments(0)

【書籍感想】若い読者のためのサブカルチャー論講義録

若い読者のためのサブカルチャー論講義録

宇野 常寛/朝日新聞出版

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『リトルピープルの時代』以来、久しぶりに読んだ宇野常寛の著作…というか、単なる講義録だけども。

概要

内容としては、日本のオタク文脈の簡単な解説で、どういう背景と特徴と流れがあったかを分かりやすく教えてくれる感じ。

違和感と問題提起

その辺の話は別に良いんだけども、冒頭からオタク的な在り方について肯定的なのが引っかかってもいる。そしてオタクと非オタク的な在り方の対立構造を想定している点にも違和感がある。

オタクの定義やイメージはここ数年で大きく変化してきていて、オタクとはどういう人を指すべきみたいな話は割とネットでも荒れやすいテーマになっている。ついでに、オタク的な在り方とは何かを考える際に、例えば海外にまで視点を広げると、オタク的な在り方とは日本人的な在り方をより極端にしたものだと表現する事が出来ることに気付ける。

まぁ、この講義は京都精華大学のオタク文化好きな人に向けられたものなので、リップサービス的な要素もあるのだとは思うけれども。

ただサブカルチャーを研究することの存在意義を、時代を反映している点に求めるなら、そうした自身に対する批評性のズレは地味に致命的なのでは?とも思える。オタク的な在り方を肯定する限り、見えないモノもあるという話である。この問題に関しては、『シェイプ・オブ・ウォーター:補講』の記事で散々語ってしまったので、改めては書かないが。

蛸壺化と分裂

『リトルピープルの時代』以降、何で著作を追いかけてなかったんだろと思って、当時の感想をネットで検索してみたら(便利な時代だ…)、『リトルピープルの時代』の内容にいまいち納得が言っていなかったらしいという事が確認できた。

その詳細は最早覚えてないんだけども、もう1つ理由があるとするならば、宇野常寛のいう若者のサブカルチャーの現場がアイドル文化に移っていったというのが大きかった気はする。この本でも、日常系アニメが流行した以降の流れとしてアイドル文化を取り上げているのだが、思うにこの辺りからオタクの世界は、かなり分裂して行ってたのでは無かろうか。

肌感覚として、ここ数年で、特にオタクの世界は分裂し極端な蛸壺化が進んだ気はするが、少なくともこの本においては、そうした傾向には触れられていない。この数年でオタク世界は分裂し多様化し過ぎてしまったので、これ以降は把握しきれていませんという、サブカルチャー論講義の根幹に関わりそうな問題に触れてもいないのはどういう訳なのか。こうした所に限界を感じる訳である。

オタクはオタクであることを批判できるか

多様性の衝突および社会の分裂は、世界中で深刻な問題になっていて、実はオタク世界にも同じ事が起こっている訳なので、サブカルチャー論講義としては、それを論じないで何を論じるんだ?という話でもある。

この本では、最終的にサブカルチャー論の存在意義としてテクノロジーの在り方について云々という着地をする。ある種のオタクのユートピア的な着地である。オタク的な在り方に肯定的な視点しか持たないと、こういう着地をせざるを得ないという話でもある。

同じオタクでも、『シェイプ・オブ・ウォーター』においてギレルモ・デル・トロは、実はオタク的な在り方こそが、今の社会の分裂を招いているという点を批判的に描いてみせた。日本的な想像力が、オタク的な想像力が世界に刺さったのは、世界にとっては危険な兆候でもあったという話だ。

オタクである事をアイデンティティとして持つ評論家がこうした徴候に気付けずに、テクノロジーへの幻想というオタク的な着地をしてしまっているのは、やっぱり、なんだかな~と思ってしまう。そして他者を批判したり肯定するだけでは見えない死角があるという事を如実に露呈している気もする。


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by cemeteryprime | 2018-03-15 21:30 | 作品・感想 | Comments(0)

【映画感想】シェイプ・オブ・ウォーター:補講

シェイプ・オブ・ウォーターについての追加記事。


ストリックランドを考える

シェイプ・オブ・ウォーターは、半魚人との異類婚姻譚的な部分ばかりが注目されがちである。実際の所、最終的なテーマとしてはそこが肝心なのだが、それよりも個人的にもっと注目した方が良いというのは悪役のストリックランドである。

個人的に私がこの映画で一番衝撃を受けたのは、ストリックランドの描かれ方である。まず、権力への執着と車への愛着という性質が、共にディスコミュニケーションへの欲望という文脈上に存在することを見せつけた。権力は交渉では無く命令を可能にしてコミュニケーションのコストを減らせるし、物に愛情を注ぐという行為の間は人に愛情を注いでいないのである。

権力への執着についてはピンと来ないかもしれないが、ストリックランドの物に執着する、会話が嫌い、口煩い女が嫌い、という性質は何かを想起させる。そう、所謂オタクである。ストリックランドは、オタクが持つ負の部分でもあるのだ。

ストリックランドとオタク、日本人

だから、シェイプ・オブ・ウォーターを観た時、まずこの部分に衝撃を受けた。何故なら私もまたいわゆるオタク的な人種だからだ。この作品内において諸悪の根源として描かれるディスコミュニケーションへの欲望を、オタクは強く持っている人種であるという話でもある。そしてこの作品の監督であるギレルモ・デル・トロもまたオタクである。己の内なる悪を、ストリックランドに投影してもいる訳である。

ついでにもう1つ指摘しておきたいのは、ストリックランドは所謂アメリカ人というよりは、日本人に近いという点である。単に官僚的な人物であるとも言えるが、日本は世界的に見て官僚制に特に親和性の高い民族でもあり、まぁ同じ話である。ストリックランドがアメリカ人というよりは日本人的で、更に言えばオタク的であるという指摘は、1つの恐ろしい事実を浮かび上がらせる。

日本国内においては、オタクと非オタクは対立軸的に語られる事が多いが、実は海外と比較して日本人的特徴としての傾向を更に強めるとオタクになるという話でもある。

個人的に、クールジャパンやオタク的想像力が世界に刺さった理由というのは、強烈なフェティシズムでは無いかと考えている。徹底的な物への耽溺である。これはディスコミュニケーションへの欲望と密接にリンクしている。現在、世界各国で社会が民主主義の名の下にバラバラに分裂しつつある状況と、実はこのディスコミュニケーションへの欲望はマッチする。日本人はオタク的想像力が世界に広がっている事を無邪気に喜んでいるが、実は危険な兆候でもあるという話なのだ。何故なら、ストリックランド的な人物が増えているという話でもあるからだ。

だからこそ、シェイプ・オブ・ウォーターを観た日本人、それも特にオタクの場合は、自分の中のストリックランド性について真剣に向き合うべきなのである。

ストリックランド問題

そして、それ故に日本人はストリックランドと向き合えないという問題もある。Twitterを観ていて気付いたのだが、日本人にはどうもストリックランドに同調し過ぎてしまうが故に、彼が悪役として描かれる事に納得できないという人までいるのだ。ストリックランドは自分なりに正しいと思ったことを、苦しみながら努力して貫いているだけじゃないかと。

映画を観れば分かるが、ストリックランドの話は1つの悲劇として描かれている。真剣にやった結果、大惨事をもたらす結果になったという話は珍しくない。本人に悪気は無かったのでセーフだと庇うこと自体は否定しないが、セーフだからこれからも今まで通りやれば良いという話になると、再び大惨事が引き起こされることは冷静に考えれば分かる話であう。ストリックランド的な在り方がもたらした大惨事は、ストリックランド的な在り方を肯定している間は繰り返されるのである。

映画において、ストリックランドは問題を起こして責任を押し付けられる。ストリックランドは、組織の正しさに従って努力して来たのに何故だ!?と慟哭する。実は組織の問題なのだが、ストリックランド個人の問題として片付ける事で、組織の在り方を変えなくて済むのである。そして、変えなくて済むのでストリックランド以外の全員が喜んでこの決定に従うのである。

ただ、こうした要素は日常的に蔓延している。ニュースを見れば日常的に色んな場所でストリックランド的な話が繰り返される事に気付ける。問題を再発させないよりも、変わりたくないを優先してしまうのである。

半魚人問題

まずは異なる相手との共通点を探す所から始めようというのが、この映画の半魚人を巡る話のメインテーマである。共通点を見つけ、コミュニケーションをとる。ディスコミュニケーションへの欲望と対立する概念の愛を、この映画ではそういう形で表現している。

半魚人はどうだか知らないが、実際、相手が人間の場合は、異なる部分よりも自分と共通する部分の方が多い。シェイプ・オブ・ウォーターが特に素晴らしい所は、自分と違う相手を受け入れろだとか、違う部分を愛するべきだという様な押しつけがましい事は言っていない点だ。よく見れば、共通点の方が多いはずだという事実だけを述べているので、普遍性があるのだ。

デル・トロはインタビューか何かで、何かを正しいと決めつけたら、それ以外を間違っていると否定することになるとみたいな事を言っていたが、極論を言えば、人間は全員が全員バラバラである。なので違いを探そうと思えばきりが無い。だからこそ、共通点に目を向けず、違う部分だけを見て、違う点を責めるという思想自体が、本質的に有害であるという話になるのだ。この思想は原理原則的に人をバラバラするのである。実際、現代社会はそういう危機に直面している訳だが…。

シェイプ・オブ・ウォーターを観た人間は、これは半魚人だけに適用されるべき話では無いという事をもっと真剣に考えるべきだろう。なにより注意すべきなのは、人は他人を属性や肩書きで捉える時、共通点には目を向けないという問題である。

例えば、男が女を語る時(逆も同じく)、共通点には触れない。違っている点だけを挙げて、それが正しいか間違っているか、許容範囲かどうかを語る。8割がた共通していても、2割の差異について語るのである。ハッキリ言ってこれはある種の盲目である。

そして何より問題なのが、何かしらの問題が起こった時に、その原因は違いから来るものだと断定しがちになる所だ。違いから来てる場合もあるだろうけども、共通部分から来る問題だった時が深刻で、問題が解決できなくなるのである。ここで、半魚人問題はストリックランド問題と合流する。つまり、自分たちを庇う気持ちが、問題の解決を避けるのである。

芸術作品の力

シェイプ・オブ・ウォーターは、アカデミー賞を確か4つくらい受賞していて、作品賞にも選ばれた。これを称して、オタク的な作品がアカデミー賞というメインカルチャーにおいて認められたと喜ぶ風潮がネットで観られたが、これまでの話を振り返って改めて考えて欲しい。

この作品において、ストリックランド(オタク的想像力)はどう描かれていただろうか?確かに、クリーチャー映画が賞を取った事は確かだし、美術面にもオタク的な拘りが散りばめられてはいるが、メインテーマとしては、オタク的な想像力に対して警鐘を鳴らしている作品でもある。

デル・トロは、入り口自体は何でも良くて(デル・トロの場合はオタクコンテンツだった)、深く考える事が重要だと言っている。これは真実で、確かに対象を深く観察すれば、まずは違いに目が行くんだけど、最終的には共通部分が見えてくるという話でもある。故に、入り口は何でもいいけど、人が作ったものに興味を持てば、最終的には人に、更には人の共通性や本質に到達できるという話で、明らかにデル・トロはそうした境地に到達できたことを、この映画を通じて示してくれている。

なのでそういう意味において、最初は人から目を背けるオタク的な在り方をしていても良い。でも、それを突き詰めると、人を見ることに繋がり、更には人の共通点について考えるようになるという話なんだけど、問題は果たしてこの映画を観た観客にそれがどこまで通じるのだろうかという点である。

Twitterで最近悲しいなと思ったのが、シェイプ・オブ・ウォーターを誰よりも理解してそうな映画評論家の人が、話題が政治になった途端にそういう見方が出来なくなってしまっているのを見た時だ。ストリックランドは社会的弱者に対してああいう振舞い方をしているのが問題なのではなく、ストリックランド的な在り方そのものが問題であるのに、どうも強者には(自分より強い権力を持つ相手には)ストリックランド的な振舞いをしても良いと考えてしまう人は多い様だ。反〇〇みたいな姿勢は、それこそ違う部分(タグ)しか観てないストリックランド的な考え方であり、彼らに問題の解決は出来ないだろう。

最近、ハリウッド映画は、こうしたモラルについてのメッセージ性が高い作品を送り出す傾向が強くなっている。政治的だ何だと言われたりもしているが、モラルについて語って何が悪いという話でもある。

思うにこれは、みんなが信じられる、みんなを繋がる大きな物語の欠落を、映画で補おうじゃないかという意志の表れだろう。何故なら、現実問題として社会の分裂が激しくなって来ているからだ。多様性を大切にしようという風潮は、裏を返せばバラバラになって来ているからこそでもある。ただ、そうした話は単に言って聞かせても相手に届かない。だからこそ、ハリウッドは面白い美しい芸術作品として、そうしたメッセージを発信する手段に出ている。

ただ、先にも述べた様に、シェイプ・オブ・ウォーターくらいの傑作でも、その意図まではきちんと伝わっている様には思えない節がある。幾ら楽しくても、メッセージについて考えてもらえなければ同じである。

同じオタク仲間であるデル・トロが趣味丸出しで作った映画が、評価された!嬉しい!異類婚姻譚だ、嬉しい!みたいなタグレベルの認識で、止まっているのは違うんじゃなかろうかと私は思う。勿体ないよと。なので、こうして補講という形で、長文を書いてみた。シェイプ・オブ・ウォーターについて考えるきっかけになれば幸いである。


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by cemeteryprime | 2018-03-14 13:30 | 作品・感想 | Comments(0)

【雑記】ジュンク堂大阪本店

ジュンク堂大阪本店の改装がいつの間にか終わっていたらしい。いつの間にかというのは、2フロア制になっているのは改装に伴う一時的なものだと思っていたからで、3月辺りだとは知っていたけども、いつ新装オープンするのか改めて聞いてみたら、もう新装オープンしてますよとの回答。これはショックだった。

というのも、売り場面積が単純に3フロアから2フロアに縮小してしまった上に、以前は1~3階のフロア間の移動が自由だったのに、分断されてしまったからだ。売り場面積が広く、色んな特集コーナーがあるのが大阪本店の特徴というか強みだったのに…。検索性が高い間取りというか、巡回しやすい棚の並びという強みも、売り場の縮小で消えてしまっている…。

個人的なジュンク堂大阪本店の楽しみ方というと大袈裟だけど、エンタメ要素があって、それは1万円以上買うことだったのよね。というのも、買い物額が1万円を超えると3階の書店内喫茶スペースでコーヒーか紅茶が1杯無料になるチケットが貰えるシステムがあったからだ。

ジャンプ漫画の新刊を1~2冊くらいしか買う予定が無くても、折角だし何かいい本は無いかなと1万円を超えるくらいを基準に2時間くらい書店内を1階から3階までぐるぐる巡回して、疲れ果てながらも特に買う予定も無かった面白そうな本に出会えたという満足感と共に、カフェスペースでミルクティーとかを飲んでちょっと休憩して帰るという、一連の流れが大きな本屋を満喫するエンタメだったのだ。

一応、今でも1万円以上買い物するとチケットは貰えるのだが(というか今日貰えたけども)、店内喫茶スペースは消滅してしまい、離れた場所にある店外カフェでしか使えないという。書店内のフロア移動も出来なくなった上に、巡回する上で面白みが無くなってしまったので、この文化はもう復活することは無いだろう。

こうなると梅田の大型書店は丸善ジュンク堂一択になってしまう訳なんだよな。先に説明した様な楽しみ方があったので、今までは常に大阪本店に寄ってから、買えない本とかがあったら丸善ジュンク堂にも寄るくらいの感じだったのだが…。

ジュンク堂に関しては梅田の丸善ジュンク堂以外にも、天王寺というかハルカス内のジュンク堂にも寄るのだが、正直言ってあまりレイアウトが好きじゃない。変な話かもしれないが、どの本をどの棚にどう置くかみたいな、書店リテラシーみたいなものは存在するのだ。こういうのは、小さめの書店の方が却って面白かったりするんだけども。ちょっと前に笑ったのは、登山ガイドとかハイキング本のコーナーに山の怪談系の本が一緒にならべてあった本屋だ。その点、以前の大阪本店は面白い企画コーナー用のスペースがいっぱいあったりして(謎の古武術グッズとか。買わんけど)、そういう遊びもあったのが良かったんだけどな…。消えたもんは仕方が無いが。


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by cemeteryprime | 2018-03-13 20:15 | 雑記 | Comments(0)

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