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【映画感想】レディ・プレイヤー1

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結論

映像的には面白いが、ストーリーは微妙。

端的に表現するなら、スピルバーグ版のソード・アート・オンラインという感じ。ただし、古いオタク文化の入り口としてのソード・アート・オンラインである。

あらすじ/概要

舞台は2045年。現実社会は完全に荒廃し、人々は一人のスーパーオタク技術者ジェームズ・ハリデーが作ったバーチャルゲーム世界オアシスに入り浸っていた。

ハリデーは死ぬ間際に、オアシスのどこかに隠したイースターエッグを見つけたものに、オアシスを含めた彼の遺産の全てを継承させると宣言(ワンピースのゴールド・ロジャーみたいだ)。かくして、それまで以上に人々は人生をかけてオアシスに潜ってイースターエッグを探すようになり、大海賊時代ならぬ大オアシス時代が到来したのであった。

そして主人公は家に居場所が無いゲームオタクの少年。彼は金目当てでは無く、純粋なゲームオタクとして、組織には属さずにハリデーが残したイースターエッグ探しというゲームに夢中になっていた。そんな彼がある日、ゲーム内で同じく組織には属さないタイプの謎めいた少女キャラと出会って…。

面白さ

舞台となるオアシスは、80年代に青春時代を送ったオタクという設定のハリデーが作ったバーチャル世界という設定なので、色んな映画や特撮やアニメやゲームのオタク文化が登場する。

日本のオタク文化からの登場キャラクターも多く、クライマックスで展開されるガンダムとメカゴジラの戦いなんかは、スピルバーグが映像化してくれたという点も含めて旧世代オタクにとっては失禁級のサービスシーンだろう。

ただ、最初の述べた様にストーリー的には、ほぼほぼソード・アート・オンラインという感じ。ゲームオタクが、ゲームを通じて世界の王になり、可愛い彼女もゲット!みたいな割と糞みたいな…というと語弊があるが、少年の心を持ったオタクの現実逃避に最適化された感じのユートピア物語であるのは間違いない。対象年齢は高校生くらいじゃなかろうか。

スピルバーグと旧世代オタク

この作品は、少年時代にオタク文化に救われたスピルバーグの、オタク文化へのある種の恩返しかもしれない。映画を観ればスピルバーグがハリデーに自分を投影しているのは間違い無いし、古のオタク文化を新しい世代のオタクに届けたいという思いを感じずにはいられない。

根底にあるのはオタクの世界においても分断が発生している現状に対する危機感の様なモノだろう。中高年オタクはこの映画を無邪気に喜んでいるが、果たして、メカゴジラやデロリアンや金田のバイクで喜ぶ若者はどれだけいるのだろうか。ストーリーは今時の若者に受けそうなSAOみたいな感じにして、この作品を入り口に、古いオタク文化に興味を持って欲しいという意図を感じる。

それを踏まえると、この作品に描かれている、最大のフィクションは、1つに統合されたオタク世界としてのオアシスの在り方では無かろうか。統合されたオタク世界というものは、実際の所は、非オタク的な人々の脳内にしかない幻想でしかない様な気もする。最近のオタクは、予備知識ゼロで楽しめるものを求めるし、予習が必要なタイプの作品は敬遠されやすい。オアシスの中で発生した様な、みんなが1つのオタク世界を共有し、夢中になって古い作品についての知識を求める世界なんて現実には存在しないのだ。今作は、そんな現実に対するスピルバーグからの切ないカウンターだとも言えるだろう。

脳内当てゲーム

もう1つ興味深いなと思ったのが、この映画におけるメインゲームの内容が、事実上のハリデーの脳内当てゲームになっていたという点である。

ストーリー構造的には、ゲーム世界の神(ハリデー)=主人公=原作者の自己投影みたいな感じなので、下らねーなとしか思わないし、主人公がハリデーの脳内を当てることで無双出来るという部分のオナニー感が酷すぎない?とも思うのだが、それはひとまず置いておこう。

何で興味深いと思うのかというと、日本のクトゥルフ神話TRPGという遊びにおいて発生しているガラパゴス的な特徴との類似性が高いからだ。

端的に言えば、プレイヤーが共通の世界観もクソも無く、各自の世界観をキャラクターとして持ち込み、みんなでゲームマスターの脳内当てゲームをして遊ぶという要素である。

はっきり言って、この脳内当てゲームという要素はそれが意図せず蔓延しがちな日本のTRPGシーンにおいても、批判的に語られる事の方が多い。実際の所は、パズルだったりクイズだったりの謎解きゲームなのだが、ディスコミュニケーション要素とゲームデザインの下手糞さから、実質的に作者の脳内当てゲームになっていると揶揄されている代物だからだ。

ハリデーの様に莫大な遺産が手に入るなら、作者の脳内当てゲームでもやる気は出るが、TRPGの場合は単なるハズレ感しかないので、批判されるのも仕方が無いだろう。それは兎も角、この共通点から視えて来るのは、自己表現や理解してもらいたいという欲望では無いのかと思える。

賞金は無くても、ゲームという形で、作者の脳内を当ててもらうという事は、ある意味で、忖度してもらえるチャンスでもある。自分できちんと説明することなく、相手に興味を持って貰い、意図を汲み取って貰うチャンスなのである。ディスコミュニケーションへの欲望(自分で説明はしなくても相手に汲み取って貰える)を満たす事が出来るのである。

また、プレイヤーが共通の世界観を無視して、思い思いのキャラクターを持ち込み、それになり切るという行為も、自己表現という文脈で理解できる。オンライン上で行われるTRPGのセッション動画なんかを見ていると、好きな漫画やアニメのキャラクターを持ち込んで、なり切っているプレイヤーは少ないない。図らずもこの作品のゲーム内で行われている光景が広がっているのである。なんなら、ガンダムやスーパーロボットを持ち込んでいる光景も見た事はある(メカゴジラは見た事ないが)

そういう意味では、なかなか現代の空気感を上手く切り取っている作品である気もする。ただ、個人的には、ライダー大戦みたいな取りあえずキャラクターがカタログ的にいっぱいでて来るだけで、ストーリーがいまいち面白く無いタイプの作品は嫌いなので、微妙だなと思った。話はジュマンジ:ウェルカム・トゥ・ジャングルの方が圧倒的に面白いよ。


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by cemeteryprime | 2018-04-22 15:40 | 作品・感想 | Comments(0)

【映画感想】アナイアレイション/絶滅領域

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結論

正直、いまいち。

映像表現的な面白さに特化し過ぎているというか、雰囲気重視な作品。メッセージ性やドラマやアクションで魅せるタイプの作品ではないので、個人的にあまり趣味じゃない。

あらすじ/概要

任務から帰って来た彼氏(軍人)の様子がおかしく、突然、血を吐いて倒れてしまう。そして、救急車で運ばれる彼氏に付き添っていると、怪しげな集団に捕まり、政府の謎の研究施設へと送られる。

どうも彼氏は、シマーと呼ばれる地球上に突如出現した謎の領域へ探査に向かった後に、失踪していたらしかった。シマーで何があったのか?いまいち事情も分からぬままに、主人公は集められた数名のメンバーと共にシマーへの探査チームに参加することになる。

面白さ

この作品を理解する為のポイントは、シマーが何を表現しているかという部分にある。

結論から言えば、シマーとはモノ(概念、ミーム、情報)の世界である。それ故に、シマーの内部では、時間の感覚も無く、不死性が存在し、色んなものが混ざったり、シャッフルされたりする。突然、肉体の一部が別のものに置き換わるのも、モノの世界だからだ。

これが理解できると、この作品は、単に人の世界がモノの世界に侵食され、最終的には人がモノに完全に代替されてしまうという状況を、隠喩的に描いている作品であると分かる。それ故に、それが理解できてしまうと、大したドラマもアクションも無いので、作品の面白さが映像的な比喩表現や批評性にしか残らない気もする。そうした表現部分を純粋に楽しめる人にとっては、特に問題無い気もするが。

シマーがミームの世界だという点は、例えば主人公が遺伝子学者である点からも理解できる。生物の遺伝子であるジーンと、モノの遺伝子であるミームは対極的な存在であり、生き物であるからこそな有限性とモノだからこその不死性という対比も何度も出て来る。

また、主人公の浮気については、ある種の人の代替性を示唆する表現だと理解出来る。人の抜けた穴や寂しさは、別の人で埋めることが出来るし、最終的には別のモノでも埋める事が出来るのである。

主人公以外のシマー探索に選ばれ人たちにも、モノの世界やモノへの代替に惹かれる傾向が、特徴として描かれている。自傷癖なんかの自己破壊衝動は、パシフィックリム・アップライジングでモノに憑りつかれたニュートの特徴として描かれていたが、自分を別のモノに変化させたいという衝動だと理解できる。不治の病を抱えている人も、言うまでも無い。

現実世界において、技術の進歩で、人の色んな能力や属性は切り取られ、代替できるようになっている。更に最近では指紋や顔や声が、機械的な個人の認証方法として使用可能になったのと平行して、簡単にそうしたものを機械的に偽造したり盗んだりできるという問題も出現している。こうした状況は、シマー内でも再現されている。

ラヴクラフト要素について

実はこの作品は、ラヴクラフト作品…『狂気の山脈にて』に影響を受けているらしい。

実はこの世は地獄の様な場所だったを、マジックリアリズム的に表現するという意味では、確かに似たような所はあるかもだが、微妙にニュアンスが違うなという気もしている。というのも、ラヴクラフトの世界観においては、世界は人が知らなかっただけで、太古の昔から本質的に恐ろしい場所なのであって、それはシマーの様なある日宇宙から飛来した要素では無いからだ。

同じくラヴクラフトの影響を受けた作品としては、エイリアンシリーズの方がそうしたニュアンスを上手く掴んでいる。エイリアンや続編のプロメテウスにおいては、生き物の気持ち悪さや、人間はそもそも得体の知れない存在から生まれたという要素がきちんと描かれている。ラヴクラフトの『狂気の山脈にて』も、実は恐ろしい邪悪な先住種族の、醜悪な奴隷種族が、人間を含めた地球上の生命の起源かもしれないという事が示されるのがヤバいのであって、別にヤバいエイリアン的な種族とのコンタクト自体が恐ろしいのではないのである。

今作は言ってみれば、ショゴスや古のものについて何の説明も予想も提示されない『狂気の山脈にて』という感じである。特に何の情報提示もされないまま終わるクトルゥフ神話TRPGのセッションにも似ている。

もし、本当にそうした作品をリスペクトする気があるなら、シマーは外から来たのではなく、もとから地球にあった要素として描くべきだし、人類とモノの関係性を踏まえると、人類の起源にもシマーは関係していたみたいな描き方をすべきでは無かったのだろうかと思う。それこそ、2001年宇宙の旅における、モノリスみたいな感じで。

過去作との関係性

ちなみに監督はこの作品が何についての話なのかは明確なので、これ以上分かり易くする必要は無いと、言っているらしい。まぁ、確かに分かり易いとは思う。

この監督の他の作品は見た事ないのだが、人がモノに代替されるというテーマだったり、人とモノの対決がテーマだったりするらしいので、そうした作品の延長線上にこの作品が登場するのは、自然な流れだとは思う。

個人的には、同じテーマを扱いながら(ジャンルは違うが)、遥かに面白いパシフィックリム・アップライジングの方をお勧めしたい。


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by cemeteryprime | 2018-04-19 10:51 | 作品・感想 | Comments(0)

【映画感想】パシフィック・リム:アップライジング

デルトロ監督のパシフィック・リムの続編。

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結論

かなりの傑作!

今作の監督は、海外ドラマ『スパルタカス』や『デアデビル』の製作総指揮で知られている、スティーヴン・S・デナイト。代表作から分かる様に、キャラクターの描き方が上手く、超面白いドラマやアクションやお約束が描ける監督なので、その辺りの品質は折り紙付き。

ただ、パシリム1作目が神作品だと思っている人ほど、違和感は大きいかもしれない。というのも、1作目がオタクのユートピア世界を描いた作品だったのに対して、今作はパシフィック・リムを使って現実社会をマジックリアリズム的に描いた作品だからだ。

あらすじ/概要

舞台は前作から10年後の世界。前作で怪獣たちがやって来る次元の裂け目への攻撃は成功して閉じたものの、世界は再び怪獣の侵略に怯えていた。

そして巨大ロボット、イェーガーによる防衛体制を再構築する為に若いパイロットを育成する一方で、遠隔操作や、無人操縦システムへの移行も進められていた。

そして無人操縦システムへの移行を審議する会議の最中に、謎のイェーガーによる襲撃事件が発生する。

面白さ

先にも少し述べたが、今作の面白さは何と行っても、ロボットや怪獣が大暴れする日本のオタク的なユートピアを描くという方向性から、一転して、オタク的なユートピアを記号的に使って現代社会を描くという真逆の方向へ転換してみせた点だろう。

ロボットや怪獣が戦うオタク的な世界観の魅力は、前作にて出し切った。じゃあ、続編がやるべきことは何だろう?となった際に、1作目をゲートにして、現代社会を理解する為のきっかけになる意味のある作品を制作しようという選択をしたのは、素晴らしい判断だろう。そしてなにより何より、最近のデルトロの作家性をきちんと踏まえているという点も評価したい。

というのも、デルトロは、シェイプ・オブ・ウォーター絡みの発言において、入り口は何でも良いから(デルトロの場合はオタク趣味だったが)、物事に深く興味を持てば、色んな勉強をする事になり、それが世界や他者に対する理解へと繋がるというメッセージを語っていたからだ。真剣に見つめれば、作品の向こうには、常に他者や異文化があり、自分も含めた人間本質があるという話である。

故に、1作目で魅力的な世界観を作り、それを使って、2作目で現代社会を風刺するという方法論は、理に適っているなと思うのである。勿論、単に風刺性が良いだけではなくて、正直キャラやドラマの描き方は1作目よりも良いと思うし、オタク趣味要素についても一作目でまだやっていなかった事を幾つもやって見せてくれる。

ハリウッド版オタク映画としての続編を期待していた人には残念な部分も多いだろうが、日本のオタク作品の良い所を駆使しつつも、ハリウッド映画の良い所と上手く合体させて来たなという意味では、文句なしに傑作だと思う。

富士山

今作のラストは、怪獣から富士山を守れ!という展開になるのだが、個人的にはこれはもう、オタク的なクールジャパン文化は俺たちが継承するし守ってやるぜ!というハリウッド映画からの恐ろしくも頼もしいメッセージに思えた。

前作のパシフィック・リムが公開された時にも、日本のクリエイターたちは、ついに怪獣やスーパーロボット作品でアメリカに遅れをとる時代が来たかと戦慄を受けていたが、更なる追撃をかまして来た恰好である。でもデルトロだけではなく、今では日本の怪獣やロボットアニメが大好きというオタク趣味なんて、日本でも珍しく無いが、世界でも珍しくないのである。つまりは、単なるオタク文化先住民としてのアイデンティティにしがみ付いているだけでは、技術もリテラシーも高い奴らには、リスペクトされているが故に、あっさり追い抜かれるのだ。

日本のクリエイターは、更に狭い世界に逃げ込むか、歴史を知り、ライバルを知り、パワーアップを目指すのかの選択を迫られている。はず。

新しい主人公

ちなみに今作の主人公は2名のアウトサイダーだ。1人は、1作目に出て来たペントコスト司令官の息子のジェイクで、五月蠅い親父に嫌気がさして軍を離れ、金の為に工場からイェーガーの部品を盗んでは売りさばくという生活をしている。もう1人はアマーラという孤児の少女で、いつかまた襲来する怪獣から身を守る為には、軍にばかり頼っていられないと、盗んだイェーガーの部品から、個人用のミニ・イェーガーを作っている。

二人とも泥棒な点は意味深だと思っている。弱い事を自覚しているが故に、足りないものをパクっていくタイプの弱者だからだ。本当の意味での新しい世代というのは、常に社会のアウトサイダーとして登場し、既存の何かを軽視し遠慮なくパクるやつらなのだ。こうした無頼な新世代が引き起こす問題というのは、日本だと過去には割れ厨が、現代には漫画村なんかが問題になっているが、旧世代によっての新世代とは常にそういう奴らなのである。そういう意味では、新しい主人公のキャラデザとしてなかなか面白い。特にジェイクは、英雄の血を引きながらも、今ではアウトサイダーであり泥棒なのである。

まぁ、日本の社会とは異なり、パシフィック・リムの社会は賢いので、二人は排斥されるのではなく、新世代を担うメンバーとして軍に強制加入させられるのだが…。

人とモノの神話とオタク

全体的な作品の構造としては、この作品は人とモノ(物神)の戦いを表現している。人はモノを作り、モノで遊び、自分たちが作ったモノに支配される生き物である。人を支配してきた存在である、神も国家権力も資本主義経済もインターネットも、全ては人が作ったモノなのだ。

怪獣や巨大ロボットというものは、人が作り出した巨大なモノ(物神)のメタファーでもある。怪獣は悪いモノ、巨大ロボットは善いモノくらいのニュアンスの違いでしかないが、モノの善し悪しは結局は人間次第なので、直ぐに裏切られる事になる。

そして、こうした人とモノが戦う神話的な世界観において、オタクは熱心な物神(モノ)崇拝者として重要な意味を持つのである。つまり、良くも悪くも人とモノを繋ぐのは、オタクなのだ。

人とモノの戦いを描くからこそ、物神崇拝者としてのオタクにスポットがあたるというこの構造は、オタク神話の在り方としてなかなか面白い。怪獣と戦うには、怪獣オタクの力がいる。しかし、怪獣オタクだからこそ、怪獣を好きにもなってしまうのである。

前作では、オタクの世界をユートピア的に描かれていたので、二人の怪獣博士は単に怪獣との戦いにおけるキーマンとして描かれたが、今作ではオタクのダークサイドも描かれる。それはオタクだからこそ、人よりも怪獣を愛し、危険なものを作ってしまうという部分である。

ニュートとゴットリーブ(深刻なネタバレ含む)

デルトロのシェイプ・オブ・ウォーターは、かなり厳し目にオタクの暗黒面を描いていたというか、オタクへの自己批評性が含まれていたが、今作ではオタクに全面的にスポットが当たるという構造上から、オタクの良い所と悪い所を二人のキャラに分けるという描き方をしている。

とは言え、劇中でニュートとハーマンのオタク博士コンビのキャラは前作を踏襲しているし、今まで通り仲良しである。しかし、二人は前作で怪獣とより深く繋がった結果、ニュートは更なる怪獣狂信者となり、ハーマンは怪獣に対する危険認識をより深めたという違いが出てた。危険だからこそ惹かれるよく知りたい、危険だからこそ対策を考えるという、潜在的な違いが決定的になったのだ。

この二人の違いは他人に対する態度にも出ている。ハーマンは明らかに人見知りでコミュ障害ではあるが、前作でニュートに対して心を開く様になった事で、人に対する愛情表現の様なものをきちんと出す様になった。一方で、ニュートの方は、今まで通り人当たりは良いが実は完璧に人に対して興味を持っていない。

違いはキャラクターの表面的なデザインにも現れていて、ハーマンの方は全身に怪獣の刺青をしていたり、自分を実験台にした危険なドリフトを行ったりと、明らかに自己破壊的な傾向が見られる。ハーマンの方は身体に障害があり虚弱系なキャラだからか、そうした破壊に惹かれる傾向は特にみられない。

ハーマンとニュートはおなじ知能の高い怪獣オタクだが、恐らくハーマンは身体的な問題や天才性から来るマイノリティ要素と弱者性によって、怪獣に惹かれたと思われる。一方ニュートは、公式に精神年齢が12歳というキャラ設定になっていて、そこに根源的な理由が見え隠れする。子供だからこそ、圧倒的なパワーに惹かれるし、弱い自分が嫌いなので、自己破壊衝動を持つのだ。そして、破壊衝動は世界にも向けられる。何故なら、人はルールやシステムを破壊すると何だか自分が成長した気になるからだ。だからニュートは作中で、システムを乗っ取っていた事を嬉しそうに暴露するのである。

思いついた事を適当に書きなぐったが、そんな所だ。最高の映画だぞ!


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by cemeteryprime | 2018-04-15 21:19 | 作品・感想 | Comments(0)

【映画感想】ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル

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結論

なかなか面白かった!

メッセージ性もしっかりあるけど、基本的に高校生くらいを対象にしている作品なので、軽い下ネタなんかも多めで気楽に観れる感じ。

あらすじ

散々言われているが、基本はブレックファスト・クラブみたいな感じだ。ゲームオタク、ジョックス、ガリ勉女子、自分にしか興味ない自撮り女という、本来交わらないタイプの高校生たちが、居残りをくらって倉庫の片付けをさせられる。

そこで呪われたゲームであるジュマンジを発見する。ちなみに今作に登場する呪いのボードゲームのジュマンジは、1995年にボードゲームなんて今時流行らないよな~という少年のディスりを受けて、TVゲームに変身している。そして、ゲームプレイした主人公たち4人は、ゲームの中の世界に吸い込まれてしまう。吸い込まれた4名は、ゲームの中でプレイヤーキャラクターと化していた。そして、ゲームをクリアしないと元に戻れない事、最大3しかない残機が0になったら死んでしまう可能性を突きつけられる…。

という感じで、ごちゃごちゃ言ってないで協力し合わないと死んでしまうという、テンポの良いブレックファスト・クラブ版ソードアート・オンラインという感じなのだ。ちょっと前に同じく、ブレックファスト・クラブをベースにした感じの映画版パワーレンジャーという作品もあったが、普通にこっちの方が面白いし、話も上手いと思った。

面白さ

個人的に一番面白いなと思った点は、RPG的な要素の使い方だ。自分とは異なる他人をロールプレイングすることで、他者への理解を深め、更には自分についての理解も深めていくという作りになっている。

ここでいうロールプレイングとは、キャラクターの長所と短所を理解し、長所を活かす形で行動し、仲間と助け合ってお互いの短所をカバーしあうという要素である。

多様性についての理解と、多様性があるからこそ助け合う意味があるという社会の在り方についてのメッセージを、RPG要素として上手く表現しているのだ。みんなそれぞれ問題を抱えているんだという、理解のその先がきちんとメッセージ化されていて、とても素晴らしい作品だと思うし、何より分かり易い。

ボスベイビーもそうだったが、分かり易く作るという要素は何だかんだで重要だろう。理解を深めれば、素晴らしいメッセージがあることに気付けるタイプの作品は、芸術的な完成度は高いが、メッセージとしては弱いのだ。

ソード・アート・オンライン(SAO)との比較

ゲームの中に閉じ込められてクリアしないと脱出できないという状況は、日本人の若者的にはソードアートオンラインをまず想像するのでは無かろうか。

ただRPG世界におけるプレイヤーキャラクターに投影された理想の自分が、何故か現実世界の自分のイメージを逆ハックするSAOとは、RPGという要素の捉え方が真逆に近いのが面白い。

ジュマンジにおけるRPG的な抽象化は、現実を理解しやすくする為の想像力だったが、SAOの場合は、見たいものだけを見るという為の抽象化であり、それを現実にフィードバックする為の想像力なのである。実際に、現実社会に蔓延していて、世界的に問題になっているのはこのSAO的なリアリズムなので、この2つの作品は、セットで観る事でより意味のあるものになると個人的には思う。

コリン・ハンクス

あと、個人的に解説しておきたいけど、限りなくどうでも良い面白ポイントは、アレックスの正体についてである。ゲームに閉じ込められていたアレックスの20年後の姿を演じているのが、コリン・ハンクスなのだ。個人的にはコリン・ハンクスと言えば、『ロズウェル、星の恋人たち』という青春ドラマで冴えないオタク気味の高校生アレックス・ウィットマンを演じていた俳優なのだ。そんな彼が20年後のおっさんアレックス役として出て来たので、謎の感動があった訳だが、これはロズウェルを観ていなかった人には全く共感できない話である。


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by cemeteryprime | 2018-04-07 11:42 | 作品・感想 | Comments(0)

【映画感想】ボス・ベイビー

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結論

それなりに面白かった。

メッセージ性はそれなりに立派なモノだと思ったが、アニメとしての面白さとメッセージ性のバランスが少し悪かった様に思える。

ただ基本的に赤ちゃんギャグが多めで劇場の雰囲気的に子供には凄く受けていたので、大人にはしっかりとしたメッセージを届けつつ、子供には娯楽アニメとして素直に楽しんでもらうという、目的は上手く行っていたと思う。

所々、テンポが悪く感じる部分があり、大人向けメッセージの部分が露骨過ぎるとも思ったが、あまり巧妙にメッセージ性と娯楽アニメ性を一体化させていると、メッセージ性が伝わらない可能性が高いことを考えるとこのくらいのバランスがベストなのかもしれない。

あらすじ

ティム・テンプルトンは想像力豊かな7歳の少年。両親に溺愛されていてティムはそんな生活を満喫していたが、ある日テンプルトン家に赤ちゃん(ティムの弟)がやってきたことで、状況は一変してしまう。

両親は朝から晩まで手間のかかる赤ちゃんの世話にかかりっきりになり、ティムは放置されてしまう。こいつはテンプルトン家を乗っ取る為に送り込まれてきた悪い奴なのでは?というティムの疑心暗鬼は膨らんでいき、ついに赤ちゃんが外部の何物かと会話している現場を目撃してしまう。

赤ちゃんはボス・ベイビーと名乗り、あかちゃん株式会社から送り込まれてきたエージェントだという。赤ちゃん株式会社の使命は、可愛いペットに人間の愛情のシェアを奪われつつある赤ちゃんのシェアを回復させること。品種改良でどんどん可愛らしくなるペットのワンちゃんが赤ちゃんにとっての一番の脅威なのである。そして、ティムの両親はそうしたワンちゃんを開発する会社の社員なのであった。

任務が終われば家を出て行くというボス・ベイビーの話を信じ、ティムは両親の会社が新しく開発中の新商品の情報を手に入れる協力をすることになるが…。

面白さ

この作品は、冒頭から明確に想像力豊かな少年の主観によるマジックリアリズム物語ですと宣言している。更にエンディングでも「~という話だったのさ」という形で父から子供に聞かせる昔話であった事を改めて示す。

なので、比較的ハッキリと大人向けには寓話であることを宣言する作りになっている。

メッセージ性としてはシンプルで、両親の愛を奪い合う兄弟の姿は、社会における国民同士のいがみ合う姿のメタファーなのである。後から来た新参者や、手のかかる弱者に回すリソースは無いという態度は、赤ちゃんに対する子供っぽいライバル心を剥き出しにする主人公の態度に似ている。

もう1つ面白いのは、赤ちゃんのライバルが可愛いペット犬になっている所だろう。面倒くさい赤ちゃんよりも、人によって都合の良い存在になるように品種改良されたワンちゃんが、シェアを奪うという構図は、人が人ではなく便利で快適な道具に心を奪われる様になっている社会のメタファーでもある。

分かりやすいが…

そして、エンディングテーマとして、駄目押しの様に世界に必要なのは(今世界に足りていないのは)人を愛する心だという、ド直球な歌詞の歌も流れる。

全体的に凄く分かりやすいし、良いテーマなのだが、裏を返すとストーリーとしては、それくらいしか言っていないという話でもある。今、世界にはある種のブラザーフッド(兄弟愛)が足りていない。

後は、赤ちゃんという存在をある種の異種族として扱う設定面の面白さを掘り下げたり、延々と赤ちゃんギャグをするだけのアニメなのだ。

この作品も、リメンバーミーみたいに冒頭に短い『ビルビー』という動物アニメが同時上映されている。内容は、自分には関係ない他人だけど危なげで放置できないので助けてあげるうちに家族になるという、動物アニメ。

どちらもメッセージとしてはいまち毒が無いというか、ちょっと性善説的な部分にしか訴えかけていない印象が強いが、分かりやすいってのは良いことでもある。というのも、シェイプ・オブ・ウォーターやリメンバーミーという作品は明らかに傑作なのだが、メッセージ性に関してはいまいち伝わっていなくて残念…という光景をネット上ではよく見かけるからだ。深すぎるメッセージ性は伝わらない問題があるのだ。

その点、ボス・ベイビーはメッセージ性が拾いやすいし、誤読のしようもない感じで、これはこれで作品としての良い特徴だとは思う。ちびっ子には受けるし、大人向けの作品でもあるので、観に行って損は無いぞ!


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by cemeteryprime | 2018-03-29 14:19 | 作品・感想 | Comments(0)

【映画感想】リメンバーミー

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結論

傑作。同時上映の『アナと雪の女王/家族の思い出』も傑作なので、さっさと劇場へGO

あらすじ/概要

主人公は、音楽が好きでミュージシャンになりたい少年ミゲル。しかし、ミゲルの一族は高祖父に当たる人物がミュージシャンとしての夢を追いかけ、妻と娘を捨てて家を出てしまったという過去があり、それが一族のトラウマとなっていて、あらゆる音楽を禁止する謎の文化を持っている。

ミゲルの一族は、高祖父に捨てられた高祖母が始めた靴職人という稼業を代々受け継いでおり、地に足着いた人生を送る事を良しとしている。

高祖父の存在は、黒歴史として消されているのだが、ひょんなことからミゲルは高祖父がミュージシャンであったこと、それも地元出身の伝説の国民的ミュージシャン、デラクルスである事を示唆する証拠を発見してしまう。

その発見を受けて、ミゲルはミュージシャンになりたいという夢を家族に告白するが、猛反対を受け、音楽コレクションを破棄され、ギターも破壊される。挙句の果てには正式に靴職人として家業の一員になることを迫られる。

死者の日(お盆みたいなヤツ)のタイミングで、家出をしたミゲルは、地元の音楽大会に参加してミュージシャンとしての第一歩を踏み出そうとするが、ギターは家族に破壊されてしまっている。そこで、ミゲルはデラクルスの霊廟からギターを借りる(≒パクる)のが、死者の日に死者から盗みを働いたせいで、呪われてしまい、生きながらにして霊界に迷い込んでしまう。

呪いを解くには、死んだ霊界にいる自分のご先祖様から許しを得る必要があるのだが、高祖母を始めとするご先祖様たちはミゲルがミュージシャンを目指さない事を条件として付けて来る。そこでミゲルは、音楽嫌いなご先祖様連中では無く、高祖父であるデラクルスを探すが…。

面白さ(ネタバレ含む)

この作品のテーマは、正しく歴史と向き合うこと、家族に向き合うこと、そして死者をリスペクトする事である。

例えがあまり良く無いが、ミゲル少年の状況は、日本に置き換えると、高祖父は大日本帝国で、家族は戦後の左翼で、ミゲル少年は今時のネット右翼という感じで解釈できる。

このネトウヨ版ミゲル君は、高祖父の存在は国家にとって悪であり黒歴史であり、とにかに駄目だから右翼的な思想も捨てろと、偏った教育されてきた訳だ。でも、右翼思想自体は魅力的で、ミゲル少年はこっそりハマってしまう。そして、きちんと過去に向き合わなかったからこそ、ネットで真実みたいな感じで、歪んだ真実…高祖父=大日本帝国は実はスーパースターだったのでは?という嘘が入り込んでしまうのだ。

映画を観れば分かるが、最終的にミゲルの高祖父はデラクルスでは無かったことが判明する上に、デラクルスはとんだインチキ野郎だったことも判明する。

ミゲルの一族は、過去のトラウマから目を逸らし続けた結果、ミゲルという家族にきちんと向きわず、結果としてミゲルを嘘の世界に追い込んだのである。

この場合の嘘の世界とは、デラクルスは偉大なミュージシャンであり高祖父でもあるという世界観と、死後の世界という嘘(=想像上)の世界でもある。

死後の世界と死者

この作品のもう一つの面白さは、死後の世界や死者を扱っている点だ。当たり前の話だが、死後の世界や死者の霊というものは、物理的には存在しない。概念的な存在である。語弊のある言い方をするなら単なる嘘とも言えるし、意味のあるフィクションであるとも言える。

つまり、リメンバーミーという作品はフィクションの世界についてのフィクションなのだ。リメンバーミーにおける死者というのは、人間としての肉体を喪失して純粋にキャラクターとなり、業績を称える物語や家族の昔話の中の登場人物となった存在でもある。だから、忘れられるとキャラクターとしての第二の死を迎えるのである。死者の第二の死の話というのは珍しいが、キャラクターが忘れられると死を迎えてしまうという話自体は、そんなに珍しくは無い。

もう1つ注目したいのは、デラクルスが他人が作った曲を盗んだという話である。先に述べた様に作品も死者も、創作物であるという点では同じである。では、単なる創作物を何故重視する必要があるのか。

それは、あらゆる創作物の誕生には、無数の人生が関わっているからである。死者は一人の人間の人生が元になって生まれるキャラクターであり、語り部たちの想いも込められる。曲には、作者の色んな想いや人生経験が込められているし、あらゆる創作物は先人の創作物をベースにして作られてる。

作品や死者へのリスペクトは、実在する、もしくは過去に実在した人々へのリスペクトにもなるのである。更に言うなら、モノを作るというのは人間の本質である。人間は子孫以外にも、沢山のモノを作って残すのである。死者としてのイメージもその1つだ。そういう意味では、あらゆるモノは実は人類の親戚とも呼べる存在なのである。故に、モノを軽視することは、人間の本質を否定する事にも繋がるのである。

ちなみに、エンドロール後というか途中で、沢山の遺影みたいな写真が出て来る。誰の写真なのかは知らないが、リメンバーミーという作品を世に出すに当たって直接なり間接的になり貢献した人々なのだろう。彼らはミゲルにとってのご先祖様に当たる訳だ。…という演出もあるので、エンドロールも最後まで観てあげて欲しい。

覗いてみれば

嫌なものがあるからと目を背けずに、過去としっかりと向き合えば、素晴らしいものがあるかもよ?というのは、リメンバーミーのテーマであるが、作中では更なる嫌なものを発見する可能性にも触れているのがバランス的に素晴らしい。

嘘の世界に追い込まれたミゲルは、結果的にではあるが、作中で憧れの存在であったデラクルスが糞野郎で、尚且つ高祖父を殺した犯人であったという衝撃の真実に到達する。勿論、それ以上に嬉しい真実も掴むのだが。

更にミゲルの高祖父が作曲していたという歴史的な事実が明らかになったお陰で、エンディングでは高祖父の未発表の曲も発掘された事が分かる。過去に向き合うこと、家族に向き合うことの、ポジティブなメッセージだ。

アカデミー主題歌賞

この作品を観る前は、グレイテストショーマンを抑えてアカデミー主題歌賞だと?どれほどのもんじゃい!と思っていたのだが、観て見ると納得度が高かった。

というのも、リメンバーミーの場合は、音楽自体はそこまでメインテーマでは無いんだけども、だからこそ主題歌の使い方が上手かったとも言える。曲自体がストーリー上重要な意味を持つガジェットとして機能していたし、何度も作中で歌われ、更に場面によって色んな意味を持つという風に、とことんこの主題歌の魅力を引き出す工夫があったと感じた。

一方、グレイテストショーマンの方は、曲自体は凄く良いんだけど、そもそもミュージカルだという事もあって、色んな名曲がそれぞれの良さを主張し、複数ひしめき合う構成になっていたので、主題歌が突出して機能していた感じが低かったのかもな~という印象。

個人的に曲単体としてはグレイテストショーマンの方が好きだ。

家族の死

もの凄い個人的な話になってしまうが、リメンバーミーを観て感動した翌々日に、同居していた祖母が死んだ。祖母はかれこれ10年ほど、ママココ以上にボケてしまっていて、リメンバーも糞も無いんだよという感じで要介護状態だったのだが、ボケて狂暴化とかはしなくてパンダの赤ちゃん状態で愛されていた。

曖昧になってる以外は特に病気とかもする事もなく、最期もこれ以上ないくらいにソフトランディング的な逝き方だったのも大きいが、そんな祖母の死が特別悲しく無かったのは、リメンバーミーという作品の影響もあったはずである。

リメンバーミーにおいても、ママココの死はかなりあっさり描かれているというか、むしろ良かったじゃんくらいに描かれている。タイミング良く似た経験をしたので気付いたのだが、リメンバーミーは家族と死者の世界の話なのに、家族の死を特にメインに描いていないというのは、実は割と特殊なバランスでは無かろうか。

ただ、ストーリーを観れば分かるが、リメンバーミーという作品は、実はミゲルの話であると同時にママココの話でもあった。父親と離れ離れになったママココが、ミゲルの手を借りて、父親と再会する話だったのだ。

リメンバーミーにおける死者の世界の描写は、実際の所、ミゲルの想像力が作った世界であるとも解釈が出来る。ミゲルの中の物語において、ママココはしっかりとした意味を持ち、収まるべき所に収まったのである。だからこそ、そこに喪失感や悲しみは無いのである。


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by cemeteryprime | 2018-03-19 20:49 | 作品・感想 | Comments(0)

【映画感想】アナと雪の女王/家族の思い出 (加筆修正版)

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ディズニー映画『リメンバーミー』と同時上映の『アナと雪の女王』の新作短編映画。長さは20分ほど。

結論

傑作。正直、全く期待していなかった(というか、同時上映の存在すら知らなかった)ので観てビックリした。

どうも世の中には『アナと雪の女王』の事が大嫌いな人や、『アナと雪の女王』というタグが付いているだけで観る価値なしと判断する人もいるらしい。

ハッキリ言って、『アナと雪の女王』のキャラクターと設定を使って、今だからこそ語らなければいけない物語を語っている作品である。

勿論、テーマ的に同時上映されているリメンバーミーにも繋がる内容にもなっている。

個人的に『アナと雪の女王』はレリゴー部分が良かっただけの作品だと思っているが、この作品に関しては紛れもない傑作である。なので、これからリメンバーミーを観に行く人は、舐めずに期待して真剣に観るべし。感動もするし、軽く泣きました。

あらすじ/概要

アナとエルサは、クリスマスの日に、クリスマスを祝うパーティーを企画して国民を誘うが、国民は各家庭でのクリスマスを祝う伝統があるからと完全にスルー。

自分たちの家の伝統を知らない事に気付いたアナとエルサはパーティーが出来ず、伝統を探そうと家族との思い出を掘り返す。

雪だるまのオラフは伝統を知らずパーティーが出来ないアナとエルサの為に、全国民の家庭を回って伝統を集めようとする。しかし、その帰り道、集めた伝統は爆破炎上し、オラフも失踪してしまう。

伝統を探して家族との過去を振り返っていたアナとエルサは、子供時代のタンスからあるモノを見つける。それは…

面白さ

驚くかもしれないが、この作品が描いているのは民主主義と国家の在り方であり、社会の本質について語っている。

クリスマスを祝うパーティーとは、祭り事であり、明らかに政治のメタファーになっている。アナとエルサは、国民を政治に招くのだが、国民はそれぞれの伝統(正しさ)に引き籠って、政治に参加しないのだ。

そしてアナとエルサは伝統(正しさ)を知らないので、パーティー(政治)が出来ない。オラフは、そんなアナとエルサの為に国民から伝統(正しさ)を集めるという話なのだ。これが民主主義についての話じゃなくて何だというのだろうか。

ただ最終的にオラフが集めた伝統は爆破炎上してしまい消えてしまう。これは現在の民主主義が正しさの在り方を見失っている状況を表現していると言える。

オラフ

ここから先はネタバレになるので注意。

家族の伝統を求めてエルサと自分たちの過去を探していたアナは、最終的に子供時代のタンスからオラフのヌイグルミを見つける。引きこもっていたエルサに贈ったプレゼントだ。

ここでオラフがアナからエルサへの『思いやり』のメタファーであったことが明かされ、更には国家の伝統の本質もまた『思いやり』であったことが、示される。

オラフを何も考えて無さそうだし能天気でウザいキャラクターとして描いた上で、実はそれこそが伝統の本質だったと示すのである。オラフ、ウザがっていて御免ね!という瞬間だ。

最終的にストーリーは、オラフの失踪に気付いたアナとエルサが、国民を巻き込んでみんなでオラフを探す形に着地する。

アナと雪の女王でやった意味

社会の分裂に対抗できるものは、思いやり=愛であるというテーマは、最近のハリウッド映画で主流となっているテーマである。

この作品の場合はそれに加えて、愛とはウザいものでもあるという部分もテーマに盛り込んでいる。

ウザいが、思いやりのメタファーでもあるオラフというキャラクターがいたからこそ、この作品は上記のテーマを見事に感動的に表現できている。国家の話をするという意味でも、アナ雪はピッタリである。

『アナと雪の女王』というタグしか見ていない人の中には、単に『アナ雪』人気に乗っかっただけの、ファン向け作品だろうと考えるかもしれないが、実際は冒頭でも述べた様に『アナと雪の女王』のキャラクターと設定があるからこそ上手く語れる物語になっている。今語るべき、観るべき物語なのである。

観たのに、内容が無いだとか、単なるアナ雪の便乗作品だとか言っている人もいるが、辛辣な言い方をしてしまうと、無いのはお前の頭の中身だろうという話である。折角の傑作なので、謎の偏見に囚われず、きちんと観ることをお勧めする。


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by cemeteryprime | 2018-03-17 20:10 | 作品・感想 | Comments(0)

【映画感想】シェイプ・オブ・ウォーター:補講

シェイプ・オブ・ウォーターについての追加記事。


ストリックランドを考える

シェイプ・オブ・ウォーターは、半魚人との異類婚姻譚的な部分ばかりが注目されがちである。実際の所、最終的なテーマとしてはそこが肝心なのだが、それよりも個人的にもっと注目した方が良いというのは悪役のストリックランドである。

個人的に私がこの映画で一番衝撃を受けたのは、ストリックランドの描かれ方である。まず、権力への執着と車への愛着という性質が、共にディスコミュニケーションへの欲望という文脈上に存在することを見せつけた。権力は交渉では無く命令を可能にしてコミュニケーションのコストを減らせるし、物に愛情を注ぐという行為の間は人に愛情を注いでいないのである。

権力への執着についてはピンと来ないかもしれないが、ストリックランドの物に執着する、会話が嫌い、口煩い女が嫌い、という性質は何かを想起させる。そう、所謂オタクである。ストリックランドは、オタクが持つ負の部分でもあるのだ。

ストリックランドとオタク、日本人

だから、シェイプ・オブ・ウォーターを観た時、まずこの部分に衝撃を受けた。何故なら私もまたいわゆるオタク的な人種だからだ。この作品内において諸悪の根源として描かれるディスコミュニケーションへの欲望を、オタクは強く持っている人種であるという話でもある。そしてこの作品の監督であるギレルモ・デル・トロもまたオタクである。己の内なる悪を、ストリックランドに投影してもいる訳である。

ついでにもう1つ指摘しておきたいのは、ストリックランドは所謂アメリカ人というよりは、日本人に近いという点である。単に官僚的な人物であるとも言えるが、日本は世界的に見て官僚制に特に親和性の高い民族でもあり、まぁ同じ話である。ストリックランドがアメリカ人というよりは日本人的で、更に言えばオタク的であるという指摘は、1つの恐ろしい事実を浮かび上がらせる。

日本国内においては、オタクと非オタクは対立軸的に語られる事が多いが、実は海外と比較して日本人的特徴としての傾向を更に強めるとオタクになるという話でもある。

個人的に、クールジャパンやオタク的想像力が世界に刺さった理由というのは、強烈なフェティシズムでは無いかと考えている。徹底的な物への耽溺である。これはディスコミュニケーションへの欲望と密接にリンクしている。現在、世界各国で社会が民主主義の名の下にバラバラに分裂しつつある状況と、実はこのディスコミュニケーションへの欲望はマッチする。日本人はオタク的想像力が世界に広がっている事を無邪気に喜んでいるが、実は危険な兆候でもあるという話なのだ。何故なら、ストリックランド的な人物が増えているという話でもあるからだ。

だからこそ、シェイプ・オブ・ウォーターを観た日本人、それも特にオタクの場合は、自分の中のストリックランド性について真剣に向き合うべきなのである。

ストリックランド問題

そして、それ故に日本人はストリックランドと向き合えないという問題もある。Twitterを観ていて気付いたのだが、日本人にはどうもストリックランドに同調し過ぎてしまうが故に、彼が悪役として描かれる事に納得できないという人までいるのだ。ストリックランドは自分なりに正しいと思ったことを、苦しみながら努力して貫いているだけじゃないかと。

映画を観れば分かるが、ストリックランドの話は1つの悲劇として描かれている。真剣にやった結果、大惨事をもたらす結果になったという話は珍しくない。本人に悪気は無かったのでセーフだと庇うこと自体は否定しないが、セーフだからこれからも今まで通りやれば良いという話になると、再び大惨事が引き起こされることは冷静に考えれば分かる話であう。ストリックランド的な在り方がもたらした大惨事は、ストリックランド的な在り方を肯定している間は繰り返されるのである。

映画において、ストリックランドは問題を起こして責任を押し付けられる。ストリックランドは、組織の正しさに従って努力して来たのに何故だ!?と慟哭する。実は組織の問題なのだが、ストリックランド個人の問題として片付ける事で、組織の在り方を変えなくて済むのである。そして、変えなくて済むのでストリックランド以外の全員が喜んでこの決定に従うのである。

ただ、こうした要素は日常的に蔓延している。ニュースを見れば日常的に色んな場所でストリックランド的な話が繰り返される事に気付ける。問題を再発させないよりも、変わりたくないを優先してしまうのである。

半魚人問題

まずは異なる相手との共通点を探す所から始めようというのが、この映画の半魚人を巡る話のメインテーマである。共通点を見つけ、コミュニケーションをとる。ディスコミュニケーションへの欲望と対立する概念の愛を、この映画ではそういう形で表現している。

半魚人はどうだか知らないが、実際、相手が人間の場合は、異なる部分よりも自分と共通する部分の方が多い。シェイプ・オブ・ウォーターが特に素晴らしい所は、自分と違う相手を受け入れろだとか、違う部分を愛するべきだという様な押しつけがましい事は言っていない点だ。よく見れば、共通点の方が多いはずだという事実だけを述べているので、普遍性があるのだ。

デル・トロはインタビューか何かで、何かを正しいと決めつけたら、それ以外を間違っていると否定することになるとみたいな事を言っていたが、極論を言えば、人間は全員が全員バラバラである。なので違いを探そうと思えばきりが無い。だからこそ、共通点に目を向けず、違う部分だけを見て、違う点を責めるという思想自体が、本質的に有害であるという話になるのだ。この思想は原理原則的に人をバラバラするのである。実際、現代社会はそういう危機に直面している訳だが…。

シェイプ・オブ・ウォーターを観た人間は、これは半魚人だけに適用されるべき話では無いという事をもっと真剣に考えるべきだろう。なにより注意すべきなのは、人は他人を属性や肩書きで捉える時、共通点には目を向けないという問題である。

例えば、男が女を語る時(逆も同じく)、共通点には触れない。違っている点だけを挙げて、それが正しいか間違っているか、許容範囲かどうかを語る。8割がた共通していても、2割の差異について語るのである。ハッキリ言ってこれはある種の盲目である。

そして何より問題なのが、何かしらの問題が起こった時に、その原因は違いから来るものだと断定しがちになる所だ。違いから来てる場合もあるだろうけども、共通部分から来る問題だった時が深刻で、問題が解決できなくなるのである。ここで、半魚人問題はストリックランド問題と合流する。つまり、自分たちを庇う気持ちが、問題の解決を避けるのである。

芸術作品の力

シェイプ・オブ・ウォーターは、アカデミー賞を確か4つくらい受賞していて、作品賞にも選ばれた。これを称して、オタク的な作品がアカデミー賞というメインカルチャーにおいて認められたと喜ぶ風潮がネットで観られたが、これまでの話を振り返って改めて考えて欲しい。

この作品において、ストリックランド(オタク的想像力)はどう描かれていただろうか?確かに、クリーチャー映画が賞を取った事は確かだし、美術面にもオタク的な拘りが散りばめられてはいるが、メインテーマとしては、オタク的な想像力に対して警鐘を鳴らしている作品でもある。

デル・トロは、入り口自体は何でも良くて(デル・トロの場合はオタクコンテンツだった)、深く考える事が重要だと言っている。これは真実で、確かに対象を深く観察すれば、まずは違いに目が行くんだけど、最終的には共通部分が見えてくるという話でもある。故に、入り口は何でもいいけど、人が作ったものに興味を持てば、最終的には人に、更には人の共通性や本質に到達できるという話で、明らかにデル・トロはそうした境地に到達できたことを、この映画を通じて示してくれている。

なのでそういう意味において、最初は人から目を背けるオタク的な在り方をしていても良い。でも、それを突き詰めると、人を見ることに繋がり、更には人の共通点について考えるようになるという話なんだけど、問題は果たしてこの映画を観た観客にそれがどこまで通じるのだろうかという点である。

Twitterで最近悲しいなと思ったのが、シェイプ・オブ・ウォーターを誰よりも理解してそうな映画評論家の人が、話題が政治になった途端にそういう見方が出来なくなってしまっているのを見た時だ。ストリックランドは社会的弱者に対してああいう振舞い方をしているのが問題なのではなく、ストリックランド的な在り方そのものが問題であるのに、どうも強者には(自分より強い権力を持つ相手には)ストリックランド的な振舞いをしても良いと考えてしまう人は多い様だ。反〇〇みたいな姿勢は、それこそ違う部分(タグ)しか観てないストリックランド的な考え方であり、彼らに問題の解決は出来ないだろう。

最近、ハリウッド映画は、こうしたモラルについてのメッセージ性が高い作品を送り出す傾向が強くなっている。政治的だ何だと言われたりもしているが、モラルについて語って何が悪いという話でもある。

思うにこれは、みんなが信じられる、みんなを繋がる大きな物語の欠落を、映画で補おうじゃないかという意志の表れだろう。何故なら、現実問題として社会の分裂が激しくなって来ているからだ。多様性を大切にしようという風潮は、裏を返せばバラバラになって来ているからこそでもある。ただ、そうした話は単に言って聞かせても相手に届かない。だからこそ、ハリウッドは面白い美しい芸術作品として、そうしたメッセージを発信する手段に出ている。

ただ、先にも述べた様に、シェイプ・オブ・ウォーターくらいの傑作でも、その意図まではきちんと伝わっている様には思えない節がある。幾ら楽しくても、メッセージについて考えてもらえなければ同じである。

同じオタク仲間であるデル・トロが趣味丸出しで作った映画が、評価された!嬉しい!異類婚姻譚だ、嬉しい!みたいなタグレベルの認識で、止まっているのは違うんじゃなかろうかと私は思う。勿体ないよと。なので、こうして補講という形で、長文を書いてみた。シェイプ・オブ・ウォーターについて考えるきっかけになれば幸いである。


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by cemeteryprime | 2018-03-14 13:30 | 作品・感想 | Comments(0)

【雑記】映画とカイヨワ

映画の面白さは人それぞれである。…と言ってしまえばそれまでな気はするが、面白さには種類があることも事実である。何か良く分からないけど取りあえず面白いからOKという状態も悪くは無いが、自分は一体どういう要素を面白がっているのかを理解すると、他の要素についての見識も深まり、より楽しめる様になるのもまた事実なのだ。

遊び(面白さ)の定義

面白さの種類に関する定義で個人的に気に入っているのは、ロジェ・カイヨワによる4区分だ。ちなみに厳密に言うとこれは、人類の本質は遊ぶ能力にあるというホモ・ルーデンスという説を発展させた文脈で登場した、遊びについての分類である。遊びの種類とはすなわち、何を楽しむかという話でもあるので、面白さの定義として解釈することもできる(はずだ)。

アゴン…競争、対決

アレア…確率、乱数、偶然

ミミクリ…模倣、シミュレーション

イリンクス…非日常感、目眩

以上が遊び(面白さ)についての4区分で、これに更に人の本質として、以下の2つの傾向を挙げている。

ルドゥス…ルールを作る、ルールに従う

パイディア…ルールを破る、解放

映画とアゴン

映画におけるアゴン要素とは、例えば主人公とライバルの対決であり、主人公が何かしらの障害を乗り越える過程であったり、内面的な葛藤についての描写もまたこれに含まれる。

その国の本質を理解するのは、その国が抱えている矛盾を見るのが一番の近道であるという言葉もあるが、衝突(対決)には見た目以上に色々な要素が詰まっているのである。なので優れたストーリーテラーほど、本質的なテーマを対決の形で見せるのである。

もちろん、シンプルにバトル自体も楽しい。

映画とアレア

映画は意図的にデザインされたものなので、乱数や偶然的な要素を仕込む余地は難しい様に思える。

あるとすれば、適当に借りたDVDの中にあまり知られていない凄い名作があったみたいなガチャ的なアタリ感だったり、予期せぬ形で個人的にタイムリーな何かを映画の中で観てしまうみたいな要素だったりするのかもだが、ざっと思いつくのは外部的要素だ。思いついた人がいたら、教えて欲しい。

映画とミミクリ

そもそも演技というものの面白さは、このミミクリ要素以外の何物でも無い。

加えて、映画の面白さとして求められるモノの1つが、感情の機微が上手く描けているだとか、人の本質がよく描けているだとか、社会がよく描けているだとかの要素で、これもまたシミュレーション要素だと言える。

いまいち意味も分からないままに、乱用されがちなリアリティがある/無いという表現も、この要素に起因している言葉に思える。(実際の所リアリティがあるという言葉には、再現度が高いというよりは、分かりやすい、理解しやすい、共感しやすいという意味合いが強く、後述のルドゥス的な要素が多く絡んでいるが…。)

また存在しないものを如何にそれっぽくシミュレーションするかというのも映画におけるミミクリの面白さである。リアルなクリーチャー、リアルな未来世界、リアルなエイリアン。

高度なミミクリが実践されている場合、意図せず映画に現実の世相が反映されたり、未来を予見することさえある。映画を通して、現実の問題と向き合うという事が可能なのはこうした要素があるからだ。

映画とイリンクス

そもそも映画の中の世界は、常にある種の非日常だといえるし、映画館という空間もイリンクス的な文脈で評価できる。

内容的な面では、ある種の見世物小屋的な要素がイリンクスだと理解すると分かりやすい。奇妙なもの、幻想的なもの、とにかく日常では目にすることが出来ない様なモノや出来事である。

ついでに3D映像だとか、座席が揺れたり、水しぶきを浴びたりみたいなギミックなんかもイリンクスに含まれるだろう。

ジャンルで言えば、ホラーは特にイリンクス要素が強い。日常では体験しないタイプの恐怖や、安心感を揺らされる感覚を求めて、客はホラーを観るのである。常識や価値観がぐらりと揺らされるという意味では、ホラーだけじゃなく社会派的なメッセージ含む作品にもイリンクスは含まれていると言える。

映画とルドゥス

映画におけるルドゥスで、まず思いつくのはお約束の面白さだろう。お約束は、短いギャグレべルの様なものから、戦隊がポーズをとったら背景で爆発が起こるみたいな演出レベルだったり、勧善懲悪だったり貴種流離譚といったストーリー全体の構造の場合もある。

ルドゥスは、あるべきものがあるべき所に収まるというルールの再確認作業でもあり、ある種の出来事から特定のルールや意味(教訓)を読み取ることもこれに含まれる。犯人や真相を推理するミステリーなんかも、パターン(ルール)を見つける娯楽として考える事ができる。

先に述べたホラーというジャンルは、説明が付かない、ルール化できないという状態(情報の欠落)を意識させると人は不安を感じるという性質を利用しているが、これは人はルドゥスを求めるという性質の裏返しでもある。ついでに言うなら、アレア(乱数、確率)に面白みを感じる(何かしらの意味を読み取ろうとしてしまう)のも、ルドゥスが関係している。

映画とパイディア

人はルールが好きだが、同時にルールがぶち壊されるのも好きである。お約束を前提にした裏切り行為だとか、意表をついたどんでん返しなんかはパイディア要素と言える。

ストーリーのテーマ的なレベルでも、刑務所からの脱獄だとか、抑圧からの解放だとか、古い慣習がぶち壊されるみたいな要素は、パイディアな気はする。また、ヴィランだとか怪獣が暴れまくる(=既存の価値やバランスを破壊する)みたいなのも、これに含まれる。

ルドゥスとパイディアは相反する感情ではあるが、人間の複雑さはこうした矛盾を抱えているという性質から来ている。ちなみに、ルドゥスとパイディアの衝突はアゴンであり、イリンクスはパイディアの変形でもあり、ミミクリはルドゥスに関係している。

映画と感情操作

人は自分の感情を揺さぶる為に映画を使う。この時、具体的に何をしているかと言えば、ミミクリである。映画を使って、共感という形で感情のシミュレーションをしているのだ。

なので、どういうタイプの感情を引き立てる道具かという視点は、映画を判断する基準になる。切ないタイプの恋愛感情なのか、ひたすらエロい感情なのか、ゾッとする様な恐怖なのか、尊さだとか怒りだとか、色々だ。

ちなみにインド映画なんかだと、喜怒哀楽等の全ての感情をバランス良く全部盛り込みなさいという美学が存在している。感情の栄養学みたいな考え方で面白い。ただ、知識としては知っていたが、この美学の真価を理解したのは、『バーフバリ』という傑作インド映画を観た際である。バランスよく、色んな感情を刺激すると、健康体操をした様なイメージで明らかに身体が軽くなるというか、確実に精神衛生が向上したのが実感できるのだ。芸術は心のサプリであり、映画は精神衛生を向上させる為の道具であるべきだという考え方をするなら、こうした要素についてもっと考えてみても良いはずである。

映画と表現

そして忘れてはいけないのが、映画は娯楽であると同時に表現であるという点だ。特定のメッセージを伝える方法は一つでは無い。ホラーとして伝えるか、ラブストーリーとして伝えるか、ヒーロー物として伝えるか、やり方は無限通りある。だからこそ、どう表現しているかという部分は、面白さの1つなのである。

例えばつい本日、アカデミー賞を獲得した『シェイプ・オブ・ウォーター』という作品があるが、人魚姫のプロットだとか、半魚人だとかを使わなくても、同じテーマの映画は作れたはずだが、敢えてそうした方法を選択している訳で、そこに表現としての意味や価値があるのだ。

ただこの表現という部分は、文脈が高度になりやすく、直感的には理解し難い部分でもある。『シェイプ・オブ・ウォーター』の場合であれば、監督が子供の頃から大アマゾンの半魚人が好きだったとか、怪獣オタクであるとか、そういう映画外の部分も関係してくるし、モンスターに余所者や変わり者やマイノリティーを投影する表現があるだとか、とにかく色んな前提知識が絡んで来る。そういう要素をフルに楽しみたい場合は、映画評論家なりの解説を聞いたりして勉強するしかないんだろうけども。

ただ、何で敢えてこういう表現をしたんだろう?という視点を持つことは、更なる面白さの発見に繋がるという事だけは主張しておきたい。

面白さについて考える

最初に述べた通り、最終的には俺はアゴン要素は好きだが、イリンクス要素は楽しめないタイプだみたいな趣味嗜好の話に着地してしまうとは思う。が…世間には、それとは異なる『〇〇は使えない、役に立たない』みたいな単にお前が使い方を知らんだけやんけ的な事例も多い。

解釈の仕方や楽しみ方は無限大な、作品の外部要素が絡みまくる表現の部分はともかく、それ以外の部分の楽しみ方に関しては、ちょっと自覚的になるだけで楽しめる部分が増えてお得なのでは?とも思える。

例えば、この映画はどんでん返しが無かったから駄目だとか…ありがちな三幕構成だったので駄目みたいな人なんかを見かけると、えっ、そこが全てだと思ってるの!?(単に趣味嗜好の問題かもだが)みたいな、損してない!?という気持ちが湧く。ので、書いてみた次第である。ここで挙げたのは、最もベーシックなレベルの娯楽要素であって、実際はもっと楽しみ方は色んな要素があると思う(好きな俳優を追いかけるだとか)。娯楽全般に応用できる話ではあるので、入門用に参考になればと思う。


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by cemeteryprime | 2018-03-05 23:31 | 雑記 | Comments(0)

【映画感想】ブラックパンサー

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結論

これぞエンタメ。人や国についての問題提起もバッチリ。直ぐに観に行くべき。

あらすじ/概要

ワカンダ王国の国王ティ・チャカが『シビルウォー/キャプテンアメリカ』で発生したテロ攻撃で死亡し、王子ティ・チャラは王位を継承することになる。

しかしティ・チャラは王位だけではなく、国が抱えていた問題も同時に受け継ぐことになる。ヒーローとして、ワカンダ国王として、いかなる正義を貫くべきかが試される。

面白さ

ブラックパンサーの面白さを説明するには、ワカンダ王国の設定を説明するのが手っ取り早い。ワカンダ王国は、アフリカの奥地にある閉鎖的なド田舎…と国際的には思われているのだが、実際には古代から世界一のハイテク先進国であり、オーバーテクノロジーの塊の様な国なのである。

そしてそれは、ビブラニウムという最強の金属であり最高のエネルギー資源でもある鉱物に支えられている。ビブラニウムは超古代に宇宙から巨大隕石としてワカンダにもたらされた鉱物で、レアメタル中のレアメタルでワカンダ王国がこっそり独占しているのである。世界で最も進んでいて豊かなのだが、この秘密がバレると、確実に世界中から狙われるので、貧乏国家のフリをしているのだ。

そして、それはすなわち、世界中でアフリカ系の人達が貧困に苦しんでいるにも関わらず、保身の為に知らん顔をしてきたという歴史でもあるのだ。しかし、現代は最早そういう事をやっていられる時代では無い。ワカンダ王国の為に戦うヒーローだったブラックパンサーも、シビルウォーの一見でグローバルな世界の舞台に引きずりだされたのだ。

キルモンガー

そんなブラックパンサーに立ちはだかるのは、ワカンダ王国が保身の為に見捨てて来たアフリカ人たちの化身の様な男、キルモンガーだ。

ワカンダ王国は、スリーパーセルを世界各国に送り込んでいた。前王ティ・チャカの弟ウンジョブもその一人であった。そして、ウンジョブはアメリカで恋に落ち、子供を作り、そして世界中で犠牲になっているアフリカ人たちの為に戦わないといけないという使命に目覚める。ビブラニウムさえあれば、そうした夢も妄想では無いのだ。

結果、ウンジョブは祖国を裏切ることになり、ティ・チャカに粛清されることになる。弟を殺してしまったティ・チャカは事件を隠蔽し、ウンジョブの家族もアメリカに捨てて帰った。ウンジョブには息子がいた、それが後のキルモンガーである。

アメリカに捨てられ孤児となったキルモンガーは、軍隊に入り実力だけでのし上がり、大学にも行って、CIAの工作員となり、恐ろしい戦士へと成長する。ワカンダ王国への復讐の為に。キルモンガーは、ワカンダ王国の王位継承権を持つ男でもあり、さらに見捨てられたアフリカ人の代表でもあるのだ。

スリーパーセルの悲劇

ウンジョブはハッキリ言ってスリーパーセルだ。面白いことに、シェイプ・オブ・ウォーターにもスリーパーセルの話が登場した。割と最近、日本のメディアにおいてもスリーパーセルに関する話題が盛り上がったことがあったので、これは面白い偶然である。

この作品でも、シェイプ・オブ・ウォーターでも、スリーパーセルはある種の権力の犠牲者として描かれる。国家の正しさの為に、身分を偽り秘密を抱え、外国で孤独に生活する羽目になったのである。そうした孤独故に愛を求め、助け合いの精神に目覚めて、悲劇的な末路を迎える姿が描かれている。ちなみに日本のメディアにおけるスリーパーセルの話には、こうした文脈での話は一切でなかった。

スリーパーセルを話題にするなんて疑心暗鬼を引き起こして、人種差別を盛り上げる気か!みたいな話か、スリーパーセルはいて当然だしそこまで危険でも無いのが常識なのでヒステリックになると良く無いよみたいな話であった。時代に取り残されている感が凄い。

悪人が法を乗っ取る時

ちなみに、ワカンダ王国の危機は、キルモンガーが正統なやり方で(要はルールに乗っ取った形で)王位を手に入れる形でもたらされる。これは法の欠陥を端的に表現する方法である。

法というのはモラルを分かりやすく理解させる為の道具だが、1つ問題なのはモラルを完璧に法という形で表現することは出来ないという点だ。なので、法が真っ当に機能するのは、モラルに従って法を使用する時だけなのだが、悪人に限って法的には問題ないからセーフという理屈でモラル違反を正当化する為に法を用いるのである。アメコミには、こうした法を悪用する悪人は多く、だからこそ法を無視してでも制裁を加えるヒーローが登場するのである。

最近、アメリカでは学校での銃乱射事件が相次ぎ、NRA(全米ライフル協会)は何故あそこまで銃規制に反対するのかと理解に苦しむ日本人の姿をネットでも見かける。NRAはアメリカ建国時の独立精神を持ち出すが、日本人には歴史を持ち出してどういうつもりだ?と言う感じで意味不明なようだ。植民地支配は実際の所、法律に基づいている。あくまで支配者のだが。要は悪人が法に乗っ取って弱者を支配する構図なのである。それに対してライフルで戦ったからこそ、今のアメリカがあるという話なのだ。こうした思想は、実はアメコミヒーローという形で垣間見る事が出来る。

ワカンダ王国も、悪人によって法的な問題ない形で支配されてしまう。ワカンダ王国を乗っ取った、キルモンガーは世界中のアフリカ人を助けるという名目の下で、全世界に戦争を仕掛けようとする。そこから先は、王子ティ・チャラでは無く、アメコミヒーローとしてのブラックパンサーの出番という訳だ。

愛が勝つ

権力(国家の正しさ)による分断に対抗するには、思いやりしかないんだよ!というのは、シェイプ・オブ・ウォーターでもテーマになっていたが、ブラックパンサーの素晴らしいシーンの1つが内戦の結末だ。どちらが正しいとか、戦闘で打ち負かしたとかじゃなく、ふと我に返って相手を見ることで戦いが終結するというこのシーンを作った監督は偉いよ!

ちなみに、すぐに目の前のものが見えなくなる人間の愚かさに対する皮肉として、先に述べたシーンの直前にあるユーモアが炸裂している所も大好きなので、要チェックだ。

ヤンキー漫画の世界

面白さを追求すると、どこかでみたような光景が展開されるのは、何も政治的な要素だけでは無い。チャンピオン読者であれば、ワカンダ王国で展開される高橋ヒロシ的な世界に驚愕するはずである。クローズとかワーストみたいな、不良漫画の世界だ。

リーダーはやっぱタイマンで決めようぜとか、一度本気で殴り合ったら漢は分かり合えるんだよ…とか、そんな世界だ。ブラックパンサーは、格好良い物理的暴力の世界を追求すると、高橋ヒロシ的な世界になる事を教えてくれるのである。憎めないゴリラみたいなキャラとかも出て来るから!みんな!期待していいぞ!

そんな感じなので、対立する2つのキャラの衝突が、徹底的に悲劇として描かれるシェイプ・オブ・ウォーターとはちょっとノリが違っていて、戦うことで、爽やかな救済も入るのが、ブラックパンサーの良い所でもある。

豊かな色彩、いかしたアクション

ややこしい事をごちゃごちゃ説明したが、基本的にはアメコミヒーローによる娯楽アクション映画であり、色んなハイテクメカを用いたスパイアクションがあったり、ヤンキーアクションであり、アフリカ部族的なアクションもあったりで、エンタメ特化な内容である。

アフリカ文化の良いとこどりをした様なイデア・アフリカというべきワカンダ王国のデザインが素敵なので是非見て欲しい。

そして、事件を受けて、新国王となったティ・チャカが目指す新たなワカンダ王国の正義もあり方も是非、劇場でチェック!


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by cemeteryprime | 2018-03-04 00:25 | 作品・感想 | Comments(0)

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